8 [ 487/682 ]


「ここに戻ったときもそうだった。エルクはジアとは違って簡単に触れてくるのに、ジアよりずっと遠い。……どう言えばいいのか、分からないが」
「詳しく聞いてもいいですか? もちろん、シエラさえよければ」

 話すことは構わなかった。シエラはぽつりぽつりと、雫が落ちるようなたどたどしさで、エルクディアに抱き締められたときのことを語った。
 部屋に入るなり抱き締められた。そこまでは別に、特に気にならなかった。いつもと違ったのはそのあとだ。シエラが「お前が私の騎士でよかった」とそう告げた途端、エルクディアの雰囲気が変わった。
 骨が軋むほど強く掻き抱かれ、鼻先に吐息が触れた。見えないほど近くに顔が迫り、――やがてどこにも触れることなく、離れていった。
 その顔があまりにも苦しそうで、今のは一体なんだったのかと訊くこともできなかった。毒でも飲んだかのように青褪めて、苦しげに唇を噛む様子が痛々しかった。
 ラヴァリルの言葉がよみがえる。「シエラはえるくんのことどう思ってるの?」どうと訊かれても困る。それが今のシエラが出せる唯一の答えだ。

「いつも通り振る舞ったかと思えば、急に“騎士”の顔をする。誰かが見ているなら、それも分かる。私だってこの一年で学習した。“神の後継者とその護衛”の距離なら、あれが正しいのだと思う。だが……」
「それでは不満ですか?」
「不満というか、……そうだな、そうかもしれない。急によそよそしくされると、落ち着かない」

 琥珀の水面に、さざ波が立つ。少し冷めてしまった紅茶は、それでもいい香りがした。

「ねえ、シエラ。シエラは、エルクのことを……その、どう思っているんですか?」
「……分からない。ただ、その、」

 濁る言葉とは裏腹に、澄んだ瞳が脳裏に浮かぶ。
 確かな答えは出ないのに、胸に居座る気持ちが存在を主張する。

「……置いていかれるのは、寂しい」

 このとき、ライナがきゅっと唇を引き結んだのをシエラは見逃した。泣きそうに歪んだ彼女の表情に気がつけなかった。カップから視線を上げたときには、すでにライナはシエラのすぐ傍らに来て、その胸にシエラの頭を優しく抱き寄せていたからだ。
 とくとくと鳴る鼓動の音が心地よい。ライナからふわりと甘い香りが漂って、シエラの心をゆったりと慰めていくようだった。

「こういったお話は、きっとラヴァリルの方が得意なんでしょうね。わたしなんかよりも、ずっと」
「そうだろうな。向こうにいたときも、やたらと聞きたがっていた」
「そうだったんですか? だったらなおさら、帰ってきてもらわなければなりませんね」

 ちらりと目をやった窓の向こうで、小花のような雪が舞っていた。耳を澄ませばその音が聞こえるだろうか。目を閉じれば、あるいは。
 シエラを抱き締める腕は、いつだって優しい。
 緩やかに、小さな蕾が綻んでいく。降り積もる雪の中で、寒さに凍えることなく、ゆっくりと。それが一体どんな名を持つ花なのか、シエラはかすかに気がつき始めていた。


+ + +



 吐き出す息が白く闇を染める中、遥か高みに浮かぶ月は僅かな欠けもなく満ちている。身を切るような寒さがラヴァリルを襲い、言い知れぬ恐怖と不安を与えていた。
 毎月のことだ。いつもいつも、月が満ちる日を疎ましく思っていた。満月の夜は、必ず“彼”がいなくなる。どこかから流れてくる血の気配に、気づかぬふりをするのはもううんざりだった。彼は優しい。彼自身はそんなこと微塵も思っていないだろうけれど、少なくとも、ラヴァリルにとっては誰よりも優しい存在だ。
 虫の声すら聞こえない冬の夜。ラヴァリルは意を決して、目の前にそびえる理事長室の扉を押し開いた。


[*prev] [next#]
しおりを挟む


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -