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カップに口をつければ、芳醇な香りを纏った水面が揺れた。歪んだ自分の顔を見つめ、ほんの一口舐めるように紅茶を飲んでから、シエラは静かにカップを置いた。小さな茶器の音が、やけに大きく聞こえる。
「……ライナは、シルディとキスしたことがあるのか?」
「ぶっ――!」
ぽつりと問うた瞬間、優雅と評するに相応しい仕草で紅茶を嗜んでいたライナの唇から、琥珀色の液体が霧となって噴き出した。顔はこちらに向いていなかったおかげで被害は免れたが、口から滴り落ちた紅茶が彼女の白い服を汚している。
「汚い」
「げほっ、す、すみませっ、」
大きく咳き込みながらハンカチで口を拭き、ライナは耳まで真っ赤にしながら辺りを気にするようにきょろきょろと見渡す。心配せずとも、ここにはシエラとライナ以外に誰もいない。ルチアは温室で薬草の管理に忙しいようだし、バスィールは隣室に控えている。テュールはよほどルチアが気に入ったのか、彼女の頭に乗ってついていった。そしてエルクディアは言うまでもなく、こんなところでのんびりとお茶をしている暇などない。
テーブルの汚れを拭き取ったライナが、潤んだ眼差しで恨みがましげにシエラを見た。赤く染まった小さな耳朶に、海を思わせる深い青の石が光っている。
「急にどうしたんですか、シエラ」
「……別に。ふと、気になっただけだ」
村にいた頃は、知らなかった。
――唇に吐息が触れそうになる、その距離なんて。
抱き締められたことは何度もある。母に、父に、姉に、幼馴染に。そのどれもが優しく、シエラを慈しむものだった。触れ合うことは嫌いではなかったし、他者の体温がとても落ち着くことは知っていた。
そうだ、知っていたはずだった。
男と女で身体の柔らかさが違うことも、確かに知っていたはずだったのだ。それなのに、「知らなかった」。何度触れられても、何度抱き締められても、「知らないこと」ばかりがシエラを襲う。
――うそばっかり。
遠い昔、照れくさそうにそう言った姉の声が唐突によみがえって驚いた。「うそばっかり。知ってるくせに」あれは、どういうときに言われたものだったのだろう。そこまでは思い出せない。もう記憶の彼方に消えていったはずの声が聞こえたことに、少なからず驚いた。
「それで、どうなんだ」
「そっ、それ、は、別にっ、シルディとはなにもっ!」
「でも、二人は婚約しているんだろう?」
「それは家が決めたことですからっ」
「なら、ライナはシルディのことが好きじゃないのか?」
心の機微に疎いシエラの目から見ても、シルディがライナを慕っているのはよく分かる。それに、彼ははっきりと「好きだよ」とライナに向かって叫んでいた。あの優しい瞳が偽りを述べているようには到底思えない。ライナも好意を抱いているように見えたのだが、違うのだろうか。
訊ねると、ライナは今にも泣き出しそうに顔を歪め、両手で顔を覆って俯いてしまった。そのか細い首までもが赤く色を変えている。
「きゅうになんなんですか……!」
震える声は、どこか舌足らずだ。
リヴァース学園で見せた毅然とした態度が嘘のようで、シエラは新鮮な気持ちでライナを見た。また「知らなかったこと」が一つ増えて、消えた。ライナにシルディの話をすると、この上なくかわいくなる。
自然と頬が緩んだ。今まで誰かとこんな話をしたことなどなかった。村では同じ年頃の友人などいなかったし、仮にいたところで彼らは遠巻きにシエラを見るだけだっただろう。姉は恋の話が大好きだったけれど、その頃のシエラはまだ幼く、恋がなんなのかも知らなかった。
まさか自分がこんな話をするようになるとは、誰も想像していなかったに違いない。