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「さあ、もうお戻り。正式な手続きはまた今度にしよう。神官達を呼んで、結婚証明書に署名をしなくてはならないからね」

 なぜ、とも、どうして、とも聞くことは許されなかった。なぜクレシャナが選ばれたのか。どうしてクレシャナでなければならなかったのか。たまたま都合よく現れた娘がクレシャナだったからだろうか。同じような条件の娘なら、このアスラナ城や城下に溢れるほどいるだろうに。
 額を飾る銀冠が、急に重みを増した。退室を促され、宙に浮いているような不確かな感覚のまま、クレシャナは立派な絨毯の上を進んだ。重厚な扉を抜けた途端、ひんやりとした空気が肌を撫でる。薄い背中に声をかけられた気がしたが、心地よい音色だけが耳に残り、言葉は頭に入ってこなかった。
 扉が閉まる。ユーリの姿がその向こうに消え、世界が隔たれた。
 見張りの兵士が、クレシャナにさりげなく注意を向けているのが分かった。彼らは身じろぎ一つしない。ふらふらと覚束ない足取りで廊下を進み、以前シエラとぶつかった角を曲がったところで膝が限界を訴えた。
 世界が、揺らぐ。
 冷えた石床に膝をつき、漏れそうになる嗚咽を必死で押し殺す。口元に当てた手を、熱い雫が濡らしていく。古びた指輪を伝う雫は、あとからあとから溢れてくる。
 王妃の冠なんていらない。立派な椅子なんて、美しいドレスなんて、一度だって望んだことなどなかった。
 青い空と青い海、白い砂浜。小さなあの島で、大好きな人達と一緒に毎日を過ごしていられればそれだけで幸せだった。
 ただ一度だけ、どうしても会いたい人がいた。何度も夢を見て、何度も思いを馳せた。届かぬと知りながら海に花を流し、ついに自らが海を渡って王都へやってきた。
 過ぎた願いだったのだろうか。望んではならないことだったのだろうか。
 これは、罰なのだろうか。

「ふ、う……っ、ああっ……!」

 ――神よ。
 どうしてこんなにも残酷な真似をなさるのですか。


+ + +



 村にいた頃では知らなかったことが、たくさんある。
 王都に咲く花の名前はもちろん、こんなにも立派な茶器で注がれる紅茶の味だって知らなかった。見上げれば首を痛めそうなほど高い天井の部屋にいるのに、ここでは寒さを感じることもない。大きな暖炉では赤々と薪が燃え、火霊によって部屋の隅々まで暖められている。
 リーディング村は、今頃深い雪の中だろう。屋根に積もった雪が落ちる音を、シエラはぼんやりと思い出していた。時には家が震えるほどの大きな音を立てて、雪が落ちていく。朝になると、腰を痛めた父の代わりにカイが雪下ろしを手伝ってくれていた。
 小高い丘から見下ろせる大きな湖には氷が張り、その上を粉砂糖のように雪が飾る。寒さで鼻先を真っ赤にさせたシエラを見て、母が温かい飲み物を用意してくれた。
 あれが世界のすべてだと思っていたシエラの前には、気がつけばいくつもの扉が用意されていた。その最初の一つを開けたのは、あの夜のことだ。月が美しい、あの日の夜。エルクディアに連れられて村を出たあの日から、シエラの世界は望もうが望むまいが、急激に広がっていった。
 今ではもう、線の細いカップの取っ手を握ることに恐怖心は抱かない。知らないことばかりが周りに溢れ、それが一つ減っては三つ増えていく。そんな日々に身を置いて、もう一年が過ぎた。
 胸の上でロザリオが揺れる。青い光を放つブルーダイヤのきらめきが、柔らかな午後の日差しに呑まれていった。


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