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*届かぬ翼
ふしぎなふしぎな青い世界。
氷の花咲く、とても綺麗な青い世界。
愛し子封じた氷の柱、空に舞い散る雪の花。
気高き竜は、浮かぶ月に恋をした。
誰より高く飛べるのに、誰より速く飛べるのに、竜の翼じゃ届かない。
氷の塔の天辺で、竜はただただ月を恋う。
水面に揺れる蒼い月。
瞬く星は、いつも月の傍らに。
――竜の翼は、届かない。空にも水面にも、届かない。
届かぬ翼
神炎の王が近づいてきている。肌を焼く炎気を、この気配を、間違えるはずがない。すべてを焦がすこの炎は神に通ずるものであるにもかかわらず、その制約に縛られない。
彼は異端だった。
だから惹かれた。この身も同じく、異端であったから。
どうか、この声が届くなら、どうか、来ないでほしい。“貴方”にこんな姿は見せたくない。どうか届いて。愛しい人、大好きな人、どうか、どうか。
お願い、愛しい人。
――貴方は人として生きていくと決めたのでしょう?
靄のかかる頭で、かつての木漏れ日をぼんやりと思い出す。
今全身を貫く痛みは、重たい鎖のように絡みついていた。乾いてこびりついた血液が肌を覆い、痒みを与えている。天井から滴る冷たい水が頬を穿ち、夢と現の狭間を行き来させていた。
今はただずくりと熱を持って痛むだけの翼に、優しく触れられた過去を思い出す。翼に触れられるのは、不思議な感覚だった。頭や手を撫でられるのとはまったく違う感覚だ。どこかくすぐったくて、撫でられるたびに身を捩って逃げようとしていた。
鐘の音が響いている。どこで? ――あの丘の上で。
風が吹いた。甘い花の香りを纏った風だった。彼は癖の強い髪を押さえて、「またくるくるになる」とぼやいていた。「もうくるくるでしょう、今更風なんて関係ないよ」そう言ってやると、彼は肩を竦めて唇を啄み、何度も熱を交わしながら「そう言うな」と笑っていた。
怖がられるのは本望じゃないと言って、彼はいつからか口調を改めるようになっていた。強いくせに、怯えられることが怖いと言う変わったひと。
彼は己を恐れる人々の中で、それでも人として生きると決めたのだと、そのとき悟った。
輝く銀の髪に、栗の表皮のような赤茶色(マルーン)の瞳。
たとえどれほどの月日が経とうと、今もこの瞼の裏にはっきりと思い出せる。
「……、」
お願い、どうか、来ないで。
貴方は人でしょう。人であると、そう決めたのでしょう。
塞ぎきらない頬の傷を、熱い涙がなぞっていく。身体の傷よりも激しく胸が痛んだ。両腕はもう動かない。杭の打たれた翼はピクリともせず、血で汚れた漆黒の羽根を散らしている。口枷の嵌められた唇から彼の名が漏れたのは、ほとんど奇跡に近かった。
瞼を閉じれば、幸せがそこにある。あの丘の上で鳴り響く鐘の音を、今もなお思い出すことができる。彼が紡ぎ出した甘い言葉の数々を、一つ一つ取り出して眺めることができる。
望む声は届くだろうか。絶望を払う風は吹くだろうか。安寧の日々を望むなど、そんな分不相応なことはしない。そこまでは望まないから、どうか。
手足を穿たれ、大空を舞うことのできる漆黒の翼には無数の穴が開いた。これでは枷が外れたところで、逃げ出すことはできそうにもない。
ベスティアの魔女を侮っていたわけではなかった。彼女の噂は聞き及んでいる。この地に策なく訪れれば、こうなることは分かっていた。
それでも、引くことはできなかったのだ。
あの人が望んだから。ベスティアの魔女を殺せと、あの人がそう言ったから。ただの人の子であるあの人は、貴方と違ってとても弱い。だからこそ、守らなければならなかった。臆病なあの人を、この手で。