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「この国は、じきに荒れる。魔導師学園との戦いは避けられない。それはシエラも分かるな?」
「……ああ」
「ユーリは王都騎士団を出す。当然俺も出ることになるだろう。その戦に、お前は連れて行けない。絶対にだ。……それも分かるな?」
「いくらなんでも、それくらいは分かる。私が行ったところで足手纏いになるだけだ」
「ならいい。ちゃんと言っておかないと、お前はまたすぐに無茶するだろうから」
さあ、手を離せ。
いつまでもこの身体に触れているわけにはいかない。この腕に抱くには、彼女はあまりにも綺麗すぎる。
何度もそうしたようにその足元に跪き、暗がりの中に声を落とした。
世界は、蒼く染まる。
どこまでも清らかで美しい光の中に、絶望が踊っていた。
「――シエラ様。どうか、我ら王都騎士団の勝利をお祈りください」
王都騎士団総隊長が剣を捧げた、ユーリ・アスラナの御為に。
+ + +
知らない路地裏に迷い込んだかのような緊張感と得も言われぬ高揚感を覚えて、クレシャナは所在無げに手を組み合わせた。
右を見ても左を見ても落ち着かない。見上げれば首を痛めそうなほど高い天井が広がり、足元はゆっくりと沈み込む毛足の長い絨毯が敷かれている。棚の上に置かれた燭台一つにしても見るからに高級品で、勧められた椅子は身体が飲み込まれるのではと危惧するほど柔らかかった。
クレシャナの人生において、王の私室などという場所には一生足を踏み入れる予定はなかった。内臓がひっくり返りそうなほど緊張しているクレシャナに、書物を片付けていたユーリが小さく笑う。その艶やかな笑みに、ぼっと頬に朱が走った。
王の私室に理由も分からぬ呼び出しを受けたと聞いたとき、ジルがひどく心配そうにしていたことを思い出す。「姫さん、それ大丈夫か?」彼は自分もついていくと言っていたが、まだ本調子ではない身体に無理をさせることはできないからと断った。
それに、相手はこの国の国王だ。粗相をすれば首を刎ねられる恐れはあるが、青年王はとても気さくな人だと聞いている。そんな事態にはならないだろう確信があった。
ほうっと溜息を吐いたクレシャナの目の前に、華奢なカップが差し出された。あろうことか、青年王自ら紅茶を淹れてくれたらしい。ぼんやりしていてまったく気がつかなかったクレシャナは、仰天して椅子から転げ落ちそうになった。慌てて謝罪すれば、笑みを含んだ声が「気にしなくていい」と告げてくる。
――ああ、もう。
恥ずかしいやら情けないやらで視線を逃がした先に、贅沢を極めた王の私室の中で明らかに浮いているものを見つけた。
壁の棚に飾られている小さな額の中に、淡い色彩の絵が飾られている。立派な絵はこの城のそこかしこに飾られていたが、あの絵はどう見ても名のある絵描きのものではなさそうだった。画布や額からそれは伝わってくる。
「どうしたんだい? なにか気になるものでもあったのかな」
「あっ……、は、はい。あの、あちらの絵画が……」
「ああ、あれか」
青海色の瞳が優しく絵を見つめる。
額の中に広がる世界は、透き通った水の中に揺れる小さな白い花畑だ。クレシャナにとっては見覚えのあるものだっただけに、より胸が騒いだ。
春になれば一斉に咲き乱れる白い花は、温暖で澄んだ海の底にしか根を張らない。鮮やかな黄緑の葉を揺らし、白い小花が躍る。
とても綺麗な海中花だ。
「わたくしの島に、この花が咲くのです。初めてご覧になられる方は、皆様夢中になっておられます。中でも旅の絵描きさんがとても気に入ってくださったようで、何枚か描いていってくださいました」
ルイド島は小さな島だ。特徴と言えば、アスラナには珍しい年中温暖な気候と美しい海くらいしかない。
観光に訪れる人間も珍しいので、その旅人のことはよく覚えている。地方からやって来たのがよく分かる方言と、恵まれた容姿を持っている人だった。彼は海中花を一目で気に入り、島に滞在している間に何枚か描き残していってくれたのだ。
ここにある絵は、不思議とそのとき彼が描いてくれたものととてもよく似ていた。
「おや、面白いね。この絵も、町の絵描きが描いたものだよ。城下町で見かけて、気に入ったから買ってきたんだ」
「まあ……」
なんとも親しみやすい王様だ。ころころと笑ったクレシャナは、僅かに勇気づけられて思い切って訊いてみた。
「陛下。この花の名をご存知でらっしゃいますか?」
深く澄んだ青海色の双眸が、クレシャナを見る。
「君は?」
「――ララ、と」
その瞬間、伏せられた瞼の奥に、青海が消えた。
澄みきった海の中に揺れる小さく可憐な花の名を、ララという。晴れ渡った空から降り注ぐ光を浴び、海を浄化する小さな花だ。
ララは、海と空と共にある。
「……そう、そうだったね。そんな名前の花だ」
「陛下もご存知でらしただなんて、嬉しゅうございます。王都の近くにも、ララは咲くのでしょうか?」
「いいや。この辺りでは見られない。――それよりクレシャナ、話があるのだけれどね」
「はい」と頷いて、一拍置いてから驚いた。
今、ユーリははっきりと自分を「クレシャナ」と呼ばなかっただろうか。それが名前だ、別段不思議ではない。けれど青年王は、公式の用向きでない限り女性の名を呼び捨てることはしないと聞いている。
青年王がなぜそうするのかは分からない。だが、事実噂通り、クレシャナも今までは彼に名前で呼ばれた記憶はなかった。
「あの美しい人の――ジルと言ったかな? 彼の怪我が治っても、君にはしばらくこの城で暮らしてもらいたい」
「え……? あの、それは一体、どういう……」
かろうじてそう声を絞り出したクレシャナに、ユーリは息を飲むほど美しい微笑を浮かべた。
「クレシャナ」
青海に、囚われる。
「君を娶ろうと思う」
――箱庭の王よ。
汝が統べるその小さき世界の外側に、神の創りし世があることを忘れるな。
back(2014.0917)