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――自室に戻った途端、空気が割れた。
バスィールとルチアは、すでに別れて各々の部屋に戻っている。ライナは一足先にユーリのもとへ報告しに行った。
広い部屋には必要最低限の明かりしか灯っておらず、ほぼ真っ暗闇の状態に近い。
火霊の力を借りて燭台に火を灯したシエラの背中が、目の前にあった。扉が閉まるとほぼ同時、エルクディアはなにかに突き動かされるようにその身体に手を伸ばしていた。
華奢な身体を、背中から思い切り抱き締める。途端に零れた小さな悲鳴が拒絶ではないことを祈りながら、縋るように掻き抱いた。
蒼い髪が頬を撫でる。花のような、あるいは水のような、形容しがたい甘い香りが鼻先をくすぐっては、胸の内をきつく締め付けた。
腕の中でシエラが身を捩る。部屋の中で眠っているはずのテュールは、一度尾のクラスターを発光させただけで近寄ってこようとはしなかった。
「エルク? おいっ、どうし、」
「どうしてお前は無茶ばっかりするんだ」
怒鳴ろうとして失敗した。
情けなくも掠れた声が出て、それまで慌てていたシエラが、急にすとんと落ち着いた。大人しく腕の中に納まって身を預けてくる。回した腕にそっと手を置き、彼女は真摯な声音で唇を割った。
決して硬質ではない、柔らかなアルトの声。焦ると少しだけ高くなって、機嫌が悪いと低くなる。耳に心地よいその声を、もう何度も聞いている。
それなのに、触れられない。
「すまない。だが、ルチアやライナがいたから平気だ。それに、ジアも」
――ジア。
一瞬誰のことか分からず、消去法でオリヴィニスの僧侶を導き出した。星の光のような瞳を持つ男。彼は常にシエラの傍にいたのか。いついかなるときも、この子を守っていたのか。
バスィールは、シエラのためだけにここにいる。
喉の奥で小さな呻きが漏れた。サイラスの言葉が、オリヴィエの言葉が、フェリクスの視線が、それぞれ脳裏によみがえる。すべてを掻き消すのは、ユーリの声だ。腰に提げた長剣が重みを増す。
分かっている。大丈夫だ、理解している。違えない。ただの私情で動かない。そんなことはあってはならない。
「なあ、エルク」
「ん?」
「お前は、いいな」
「え……?」
どこか嬉しそうに、シエラが笑った。
「私がどれほど無茶をしても、お前は必ずこうして捕まえてくれる」
いつも、いつでも。
そう付け足して笑うシエラが、もぞりと動いて身体を反転させた。僅かな距離が空き、至近距離で正面から向かい合う。見上げてくる目元は、暗がりではよく見えなかった。
「――お前が私の騎士でよかった」
ああ、ほら。
蒼い世界に、意識が眩む。
骨すら軋むほど抱き締めて、痛みを訴える唇に己のそれを近づけた。吐息ごと奪う寸前で、時間が止まったかのように身体が動かなくなった。
――分かっている。大丈夫だ、理解している、違えない、ただの私情で動かない、そんなことはあってはならない、分かっている、大丈夫だ。
落ちた額を細い肩に預け、硬直するシエラの身体に縋った。長く息を吐き、頭を埋め尽くす蒼い光を遠ざける。
心が軋む。内側がひび割れた水晶玉のように、表面だけは美しく整えているけれど。
この子はなにを望むのだろう。なにを夢見るのだろう。どんな道を歩むというのだろう。そのどこまでもを、隣に立って見守りたい。いついかなるときも、彼女を苦しめる脅威からこの手で守りたい。
許されるのなら、奪ってしまいたかった。色づいた花びらのような唇に自らの唇を重ね合わせ、密やかに零れ落ちる吐息すら飲み込んで、この世界を照らす瞳が朝露のような雫を浮かべる様を見たかった。
他の誰にも触れさせず、自分だけのものにしてしまえたら、それはどれほど甘美な夢を与えてくれるのだろう。恐ろしいほど傲慢な考えが、我が物顔で頭を占拠する。
――遠い日の記憶が、エルクディアの心を軋ませた。
『……ルントアプールは知ってる。みんなが言うの。いつか、わたしの騎士になるひとがいるところだって』
花に囲まれた小さなお姫様は、少し悲しそうにそう言った。
『あなたも、だれかの騎士になるの?』
誰かの騎士に。
ああ、そうだ。そう決めた。あの日、そう誓った。
『――俺が、君の騎士になる』
初めて、誓いを立てた。
『守ってやるよ。誰かを犠牲にしてきたなんて感じさせないほど、完璧に。姫様はずっと綺麗なままでいさせてやる』
どんなに世界が穢れようと、その綺麗な目には綺麗なものだけが映るように。この世界の汚いものを見ないで済むように。
痛くて苦しくて恐ろしいものを、すべて遠ざけると誓った。
そう、決めたのに。
あの日の約束は果たせない。
――あの子は、もういないのだから。
「絶対」や「必ず」といった言葉は嫌いだった。それを守れない己の不甲斐なさを実感し、血を吐くような思いを味わうことを知っているからだ。
――ああ、けれど、もう大丈夫だ。エルクディアはうっすらと微笑み、星の光が瞬くのを瞼の裏に見た。
この子の“騎士”は、他にいる。
彼ならば、この子を綺麗なまま守ってくれるだろう。傷つけず、苦しめず、穢れのない手で、この子に触れることができるのだろう。
何百と首を落としてきたこの手ではなく、神に仕えるというあの清らかな手で、見事に導いてくれるだろう。
この子は汚れてもいいと言ったけれど、やはりそれでは駄目なのだ。この子の瞳に映る世界は、どこまでも綺麗でなくてはならない。