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「……こんなの、シエラにお願いするのおかしいって、それは分かる。でも、お願い、助けて。ごめん、困らせるよね、ごめん。でももう無理なの、あたし、どうしたらいい? どっちが、なにが正しいの?」
「今すぐここを出て、城に来ればいい。そうすれば、」
「できない。駄目だよ、あの人を裏切れない。だってあたしが、――あたし達が逃げたら、みんな死んじゃう。ミューラも、サリアも、みんな!」

 ――ああ、そうか。
 人質は、シエラなどではなかった。ライナでもなければバスィールでもない。ましてやルチアでも。
 ここにいる本当の人質は、ラヴァリルが愛する友人“すべて”だ。

「ごめん、ごめんね、シエラ。ごめん。最後まで悪者でいれなくてごめん、困らせてごめん。でも、ねえ、お願い。あたしはどうなってもいい、どんな罰でも受ける、だからお願い、助けて。あの子は……、リースは、助けてあげて。もうこれ以上、リースが傷つくのを見るの、嫌なの……!」

 その慟哭は、果たして月に届くのか。
 まるでここは箱庭だ。王様気取りの男が管理する、薄気味悪い小さな世界。
 神の創ったこの世に、彼はなぜ自らの世を求めたのか。
 血が凍る。
 鼓動を追うように響いてきた潮騒が、徐々に凍てつき薄氷の歌を奏で始めた。世界が蒼く染まり、透明な結晶の中に包まれる。

「――必ず、救い出そう」

 濡れた目元に、約束と祈りを。
 瞬時に凍りついた涙の結晶に口づけ、シエラは小さな頭を胸に抱いた。


 箱庭の王よ、違えるな。
 ――お前は、神ではない。


+ + +



 月が満ちるたび、血が震える。
 人と魔物の境界線を行き来し、そのどちらにもなれずに痛苦に四肢を絡め取られてのたうつ。
 そんな血に価値があると言ってくれたのは、あの人だった。
 魔物を殺し、恨みを晴らすための力を授けてくれたのは、あの人だった。
 あの人の言葉に、間違いはないはずだった。

 だのに、蒼が揺れる。

 あれは一体なんだ。あれこそ悪魔ではないのか。
 あれの気はすべてを狂わせる。盤石な意思が、奥底から小さな亀裂を広げていく。分厚く張った氷が徐々にひび割れていくように、静かに、確実に。
 もうすぐ月が満ちる。
 世界は紅く染まるはずなのに、なぜか、蒼が揺れる。


+ + +



 いついかなるときも高潔であれ。
 孤独を嘆くことなく、痛みを叫ぶことなく、気高く前を睨み続けろ。
 その牙を、その爪を、絶えず研ぎ続けろ。
 竜と呼ばれるに相応しい尊さを示すのならば、心血を捧げ、剣を傍らに、その膝下に跪こう。



 騎士館に設けられた鍛錬場の一角は、騎士長と六番隊隊長が訪れたのをきっかけに自然と人払いがなされた。誰もが二人の醸し出す空気を敏感に感じ取り、別の場所へと移動したのだろう。もともとひと気の少ない場所を選んだのだから、その場ががらんとするのもあっという間だった。
 鋼を打ち合わせる音が遠くに聞こえる。耳に馴染んだそれは、今はなぜか少し息苦しさを生んだ。

「少し、お痩せになりましたか」
「え? ……いや、ちゃんと食べてはいるんだけどな。そう見えるか?」
「ええ。頬の辺りが少し。心休まる暇はございませんでしょうが、せめてお身体だけでも労わって差し上げてください」

 オリヴィエは慇懃な調子で言い、晴れ渡った冬空を見上げた。風は冷たいが、身体を動かせばすぐに汗を掻く。今はこうして二人とも軍服を着込んでいるが、ひとたび鍛錬を始めれば上着などものの数分で脱ぎ捨てるに違いなかった。
 しゃんと伸ばされた背筋を見ていると、思わず弱音が口を突いて出た。「さすがにきついな」苦笑とともに零したそれに、オリヴィエはなにも答えない。ただ隣に立って、遠くを見つめているだけだ。
 彼はいつもエルクディアの味方だった。フェリクスが「愛が重い」と冗談めかして笑うほどのオリヴィエは、無言のままエルクディアの傍らに立って目を伏せるだけだ。
 それを、許されているのだと感じた。――事実、そのときはそうだったのだろう。
 連日の会議と容赦のない罵倒に、エルクディアの心は擦り切れ、摩耗しきっていた。普段ならば頭の中をぐるりと一周し、出すべきか出さざるべきか判断できる言葉が、その作業をこなすことなく外に滑り出た。

「王都騎士団長には、お前の方が相応しいのかもしれないな」

 空を見上げていたオリヴィエが、静かに振り返る。
 レンガ色の髪から覗く額に走る傷跡が、瞳と一緒にエルクディアを射抜いた。

「今回のことを機に、総隊長はお前に任せた方が周りのためかもしれない。お前なら、八番隊や九番隊だって上手く纏められるだろうし、他の重鎮達も納得するだろ」
「なにを仰いますか」

 微かにその声が震えていることに、このときのエルクディアは気がつけなかった。

「忘れないでください。私はあなたの瞳に惹かれたのです。竜のような苛烈なその瞳に。牙や爪の代わりに風を裂くその剣に。――あなたが自ら牙を折ると仰るならば、私はあなたに価値を見出せない」

 額に走る剣の痕。
 その傷が残った経緯を、エルクディアも詳しくは知らない。酒の席で誰かが訊ね、そのたびにオリヴィエは「力不足によるものだ」の一言だけを返して詳細を語ろうとはしなかった。
 その傷跡に、彼は無意識に触れていた。自らの傷をなぞったオリヴィエは一度口元を覆うように手を添えてから、斬りつけるような視線をエルクディアへと向けた。
 ――間違えた。
 なにを、どこで。考えるまでもない。今し方この唇を割った情けない泣き言が原因だ。心臓が全速力で駆け出していく。
 オリヴィエが、寒気がするほど穏やかな声で言った。


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