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「それに、随分とヒト臭いですわよねぇ? まあ、わたくしが言えたことではありませんけれど〜」

 人の世に興味を持ったレティシアはまだしも、有翼人が人間と関わることは滅多にない。仮にあったとしても、それこそ親しい関係を築いた恋人の前くらいなものだ。
 だが黒い天使は、数多の人間の匂いを纏わりつかせている。一人や二人では足りない。これは確実に、人の世で生きる者の匂いだった。

「あなたがどうしてそんな匂いをさせているのか、分かりませんけれど〜。もしかして、“このこと”と関係があるのかしらぁ?」

 レティシアの手のひらに浮かんだ泡の表面に、燃え上がる炎が揺れた。

「――あなたも感じておられるんじゃありません? この炎気。まさしく神の炎と呼ぶにふさわしい激しさですわぁ〜」

 黒い天使が大きく口を開きなにかを叫んだが、その喉は音を生まない。鳴いた鎖が声となり、彼女の激情を伝えてくる。動けば動くだけ手足に穿った杭が肉を抉って血を生むというのに、どうやら彼女はあまり学習しないらしい。
 それならばと、レティシアは短い杭を生み出して漆黒の翼に勢いよく打ち込んでいった。指を鳴らすだけで杭が飛ぶ。無数に突き刺さったそれらに、呻く天使が鎖を鳴らす。
 滴る血が放つ芳醇な香りに、うっとりと酔い痴れてしまいそうだった。

「おいたはいけませんわぁ、黒い天使さん。ねーえ? わたくし、とぉっても不思議に思っておりますの〜。どうしてあなたの血が流れるなり、こぉんなに強い炎気が近づいてくるのかしら〜? だってこれ、普通の炎気ではありませんものねぇ?」

 遠く離れていても分かる、激しすぎる炎の気配。
 激情に呑まれたそれは、肌を嬲る熱を持つ。心地よい神気とそれを凌ぐ炎気が混ざり合い、血の淀みを生み出している。清らかなのに、穢れている。
 ベスティア中の火霊達がざわめき、水霊すら怯えて鳴りを潜めている有り様だ。このベスティアの地に、一体なにが訪れたというのだろう。
 レティシアには遠見の術は備わっていない。人とは比べ物にならない勘は持ち合わせているが、未来を見ることはできない。
 それでも感じる。
 これは王者の気配だ。
 目につくもの、触れるもの、聖魔、生死、その一切を問うことなくすべてを焼き払うことのできる神炎の王が、近づいてきている。

「今ここであなたの翼を落としたら、この素敵な炎の持ち主はあっという間にあなたを見つけてくれるのかしら〜?」

 ――ベスティアの地で、魔女が笑った。


+ + +



 白き御名の神よ。
 貴女が愛したこの世に、貴女は何度くちづけたのか。

 白き御名の神よ。
 貴女が愛したこの世に、貴女のくちづけによってどれほどの命が生まれたのか。

 白き御名の神よ。
 貴女が愛したこの世は、貴女の箱庭ではあるまいか。


+ + +



 馬車に乗って向かった先は、クラウディオ平原の外れに位置する小さな牧場だった。平原の果てということもあり、この辺りは王都の結界範囲からも外れている。
 今度の馬車には、バスィールも同乗していた。贅沢を理由に馬を選ぶかと思ったのだが、彼は護衛のためにシエラの隣で錫杖を構えている。シエラを真ん中に挟むようにバスィールとルチアが座り、向かいにはライナとラヴァリルが座っていた。リースは馭者台で馬を操っている。
 シエラ達が「逃げ出す心配はない」と信用されているのか、それともラヴァリル達が「逃がすはずはない」と信頼されているのか、どちらなのかは分からない。どちらでもあるのかもしれないが、どちらにせよシエラには関係のない話だった。どのみち、ラヴァリル達の明確な目的が分かるまでは帰るつもりはない。
 沈黙を貫く馬車内の重苦しい空気に耐えかねたのか――ルチアは一人楽しそうに鼻歌を歌っていたが――、ラヴァリルがなんでもない調子でライナの耳元を指さして微笑んだ。

「ライナ、ピアス変えた? 前からその色だっけ?」
「え? ――ああ、いいえ。これは最近貰ったものなんです。ラヴァリルなら知っているでしょう? ホーリーブルーを使ったものですよ」
「えっ、そうなの? すごーい、きれー。いいね、すっごく似合ってる!」

 「誰に貰ったの?」と目で三日月を作るラヴァリルにライナが頬を染めてうろたえ、そこにルチアが「シルディだよ!」と追撃をかけたせいで、さらにライナが頬を赤くさせる。そんな様子を見ていると、アスラナ城で過ごしていた頃となんら変わりないように思えた。
 ラヴァリルがシエラ達に銃口を向けたことも、リースが短剣を投じたことも、夢だったのではないか。

 けれどそんな平穏は、肌に突き刺さる魔気によって一瞬で掻き消える。
 シエラとバスィールがほぼ同時に顔を上げ、ほんの一瞬遅れてライナが、そして魔導師二人の持つ魔導装置が反応した。けたたましく鳴り響く魔導装置を確認したラヴァリルが、御者台のリースに声をかける。
 だが、言われるまでもなかったのだろう。リースは巧みに手綱を捌くと、馬を興奮させることもなく静かに馬車を停止させた。
 外に出るなり、眼球をひっくり返されるような不快感がシエラを襲う。一瞬強く駆け抜けた頭痛は、けれどそれ以上の痛みをもたらさなかった。胸の痛みもすぐに消え去り、残ったのは研ぎ澄まされた感覚だけだ。その事実に、シエラは驚いた。
 あれほどまで痛みを代償として魔物を感知していたのに、その痛みが明らかに軽くなっている。まるで波に呑まれて消えるかのようなそれに、シエラは無意識に胸に手を当てていた。
 これは、あの傍若無人な海神(わだつみ)の加護だろうか。


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