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「私はお前が来いと言ったから来たんだ。なにか問題でもあるのか?」
「ないけど、でも!」
「――本人がすると言っている。好きにさせればいいだろう。理事長も了解済みの案件だ、俺達がどうこう言う筋合いはない」

 冷ややかに言い放ったリースは、コーヒーを口につけるなり痛みを堪えるように目を細めた。切れた唇に染みたらしい。
 物言いたげに俯いたラヴァリルは、やがて諦めたように一度目を閉じ、水を飲み干してから肺の空気を空にする勢いで溜息を吐いた。深紅の制服を纏った彼女がその胸の内になにを秘めているのか、シエラでは分からない。
 ほんの一瞬泣きそうな顔をした彼女は、微笑みとともに胸ポケットに仕舞っていた紙を広げた。


+ + +



 ベスティアの地で、魔女が笑う。
 目が開いたばかりの子猫と同様の青灰色の瞳に無垢ゆえの残酷さを鏤めて、二つに結わえた豊かな巻き毛を揺らして魔女が笑う。漆黒のレースをふんだんに使った衣服が、寒気がするほどとてもよく似合っていた。
 塔の上の一室で、土人形を相手に彼女は微笑んだ。愛しい子どもの頬を撫でれば、瞳孔を持たない瞳が仄暗い光を宿す。

「うふふ〜。どなたかが、わたくしのことをお探しになっておられるようですわ〜。身を焦がすような灼熱の炎……うふ、なんて情熱的な方なのでしょう〜」

 肌を嬲る激しい炎気に、身体の奥から心地よい痺れが全身を駆け巡った。熱い吐息が濡れた唇から零れ、熱に潤んだ瞳が愛おしげに土人形を見つめる。
 ベスティアの魔女と称されるレティシアは、調子っぱずれの鼻歌を歌いながらその場でくるりと回ってみせた。動きに合わせてスカートが広がり、アプリコット色をした髪が揺れてツンと尖った両の耳が露わになる。
 石床を爪先で叩いて拍子(リズム)をとっていくうちに、室内を満たす空気が徐々に変質していった。風もないのに緞帳(カーテン)が揺れ、蝋燭の炎が一瞬にして掻き消える。茶器が悲鳴を上げ、本棚が耐え切れずに書物を吐き出した。塔全体が大きく揺らぎ、天井からは砂埃が降り落ちる。
 そんな明らかな異常の中、レティシアは楽しげに微笑みを浮かべて踊っている。彼女がパンッと一際大きく手を打ち鳴らした瞬間、そこはもう塔の一室ではなくなっていた。
 湿った土の匂いが濃く香る洞窟に、雫の落ちる音が幾重にも反響している。明かりなど一つもないその場所を、レティシアは危なげなく歩んでいった。ベスティアの子どもなら誰もが知っている童謡を口ずさむ姿は、無邪気な少女そのものだ。
 伸ばした手の先すら見えなくなった闇の中、レティシアは指を弾いて光を呼んだ。どこからともなく生じた光の珠が、闇の中にいくつも浮かぶ。そのうちの一つを指先で押し滑らせ、洞窟の行き止まりを照らしだした。剥き出しの岩肌に打ち込まれた杭が鈍く光を弾く。
 一定の間隔で聞こえてくる水音。弱々しく紡ぎ出される空気の擦れるような音。
 ――そこに漂う、芳しい血の香り。

「そろそろ教えていただけると嬉しいのですけれどぉ、まだおしゃべりする気にはなりませんの〜? あらあら、困りましたわぁ〜」

 頬に手を当てて伏し目がちになるその仕草は確かに困っているように見えるが、言葉から伝わってくる緊迫感は皆無だ。
 鎖が鳴く。重い金属音が洞窟内に響き、それはレティシアの胸を高まらせた。

「あまり暴れると、余計に傷ついてしまいますわぁ〜。それはすこぉし、もったいないと思うのですけれど〜」

 跳ぶように近寄り、レティシアは穢れなど感じさせない笑顔で「それ」に触れた。途端に声にならない悲鳴が、音もなく空気を震わせる。
 魔法具で声を奪い、四肢の自由を奪い、この闇の中に閉じ込めた。なんて美しい“黒”なのだろう。血に塗れてもなお、その色は気高くあり続ける。
 両の手足とともに大きな「それ」にも杭を打ち、標本のように岩壁に張りつけた。鎖を絡めたその姿は、なんと艶やかなことだろう。
 細い顎先から赤く汚れた汗が伝い落ちる。光を失わぬ黒い瞳が、まっすぐにレティシアを射抜いた。

「でも、本当に不思議ですわぁ。あなた、ご存じないのかしら〜? ベスティアには、わたくし、レティシア・フェルがおりますのに〜」

 「それ」は答えない。
 声を封じられているのだから、答えられるはずもなかった。

「おばかさんですわねぇ。どうしてここに来たんですの〜? 教えてくださいな、黒い天使さん」

 天高く羽ばたくことのできる、漆黒の翼。
 この世界で時渡りの竜に次いで希少種だと言われている幻獣の一種、有翼人。ひっそりと暮らす彼らが人前に姿を現すことはほとんどなく、空を飛ぶ姿を見ることができればその者には幸運が降り注ぐと言い伝えられている。
 長く生きるレティシアでさえ、間近で有翼人を目にしたことは数少ない。有翼人と人間の間に生まれた魔女ならば何人か知っているが、彼女達は皆短命だった。親である有翼人は長命で知られているが、子はそれを受け継がなかったらしい。
 今目の前にいる黒い天使は、腰に剣を佩いていた。彼女はどうやら剣士でもあるらしい。

「ですけれどぉ、黒い天使さん、あなた、本当に幻獣ですの〜? 不思議な匂いがいたしますわぁ」

 レティシアの中にも流れる清らかな幻獣の血の匂いと、相反する闇の匂い。それらが混ざり合って、独特の甘い香りが黒い天使からは立ち昇る。
 純粋な幻獣には流れるはずもないその気配に、レティシアはにんまりと口端を吊り上げた。


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