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 六年前にこの人を見たとき、神様が薔薇の花を美女の姿に変えて海に流したのだと、本気でそう思った。けれど、実際はそうではなかった。ジルは薔薇の化身でもなければ、美女でもなかったのだ。
 なにも覚えていないと不安と苛立ちに声を荒げたこの人に、クレシャナは「よかったですね」と告げた。怒りを通り越してきょとんとしたジルに、クレシャナは微笑んだ。

『一番大切なものを覚えていて、よかったですね』

 ジルがどこの誰なのか、クレシャナには分からない。海の向こうから来た美しい人はなにもかもを忘れてしまっていたけれど、自身の名前だけは覚えていた。
 あなたの名前。あなたをここに繋ぎ止めるもの。生まれてから一番最初にもらえる、あなただけの贈り物。
 あなたがあなたであれるように。
 大切な人に、あなたが分かるように。
 「もちろん、おつらいでしょうけれど」眉を下げたクレシャナに、ジルはやっと笑って「あんた変わってるな」と言ったのだ。あの笑みを、クレシャナは今でも忘れられずにいる。

「ねえ、ジル。お目覚めになってくださいませ。あなたにお話したいことが、たくさんあるのです」

 眠り続ける姿にそっと声をかける。痛み止めの影響で深い眠りについていたジルだが、医官の説明によればいつ目覚めてもおかしくない状態だという。怪我の具合もさほど心配するほどでもなく、折れた骨が元通りになりさえすれば、今までと変わらず歩けるようにもなると言っていた。
 色濃く鮮やかに咲き誇る薔薇色の髪を掬い、クレシャナはその目元を優しくなぞった。
 睫毛が震える。――ああ。喜びに満たされた胸が躍り出す。うっすらと開かれた瞼の向こうに、鮮やかな緑の瞳が覗いた。ぼんやりと宙をさまよっていたそれが、ぴたりとクレシャナを捉える。

「……ひめ、さん?」
「はい。おはようございます、ジル。ご気分はいかがですか?」



 身体を起こすことはできないので、ジルは寝台に横になったままだった。様子を見に来た医官見習いが「もう大丈夫そうですね」と笑顔で太鼓判を押すと、部屋にはクレシャナとジルだけが残された。
 ジルの記憶は、魔物に襲われたあの平原でぷつりと途切れている。開口一番「姫さん、怪我はないか?」と訊かれて、クレシャナは思わず吹き出してしまった。同時に込み上げてくるものを感じて、じわりと目の奥が熱くなる。
 ヴィシャムとフォルクハルトという二人の聖職者が助けに来てくれ、しばらくは城で療養することが決まっていると告げると、ジルはこれ以上はないほど驚いた顔をした。それもそうだろう。目が覚めたら、一生立ち入ることはないだろうと思っていたアスラナ城の寝台で寝ているのだ。驚くなと言う方が無謀だった。
 病室だというのにやけに高い天井を見上げ、ジルが軽く息を吐く。
 
「でも悪いな、姫さん。俺のせいで、人探しが遅れちまうよな……」
「いいえ、もうよいのです。もうお会いすることは叶いました」
「え? え、ってことは、姫さんの探してた人って城の人間だったのか?」

 曖昧に微笑んで、美しい窓を眺め見る。今は雪雲に遮られて見えないが、晴れた日にはきっと青空を見ることができるのだろう。
 海と共鳴する鮮やかな空色の瞳を輝かせたクレシャナを、ジルは黙って見つめていた。小さな口元に浮かんだ微笑からなにかを感じ取ったのか、彼は一つ頷くだけでそれ以上を追求しようとはしない。

「会えてよかったなぁ。なにか話したのか?」
「ええ。……とても幸せな時間にございました」

 二度と会えないだろうと思っていた。会うことはできないのだと。それでもいいから、一目姿を見たかった。 
 何度も夢見た、海の向こうに暮らすあの人。
 届かぬ思いを花に託し、何度も何度も海に投げては、沈みゆく花びらに胸が痛んだ。
 どうしても会いたいのだと告げたクレシャナに、唯一協力してくれたのはジルだった。島から一歩も出たことのないクレシャナに代わって、様々な手配をしてくれたのがジルだ。彼がいなければ、王都の地を踏むことはできなかったに違いない。
 右手に填めた指輪に口づけて、これ以上はない幸せを噛み締めるように笑みを形作った。

「……姫さんがそんなに幸せそうな顔をする人なら、俺も会いたかったな」

 ほんの僅かに拗ねたような口調でジルが言った。
 今の自分はどれほど締まりのない顔をしているのだろうか。胸の奥深くから溢れてくる温かい気持ちが、冬の寒さすら忘れさせるようだった。
 ジルの視線がクレシャナの首元に止まる。

「あれ、姫さん、そんなのつけてたか?」
「ああ……。こちらは以前、島にいらした宝石売りさんに頂いたものにございます。お城の方は皆さまとてもお美しくおられますので、わたくしも少し背伸びをしてみました。……やはり、似合いませんでしょうか?」
「いんや、似合ってる。海の色みたいで、すっげぇ綺麗だな、その石」
「はい。あまりの美しさに傷でもついたらどうしようかと懐に仕舞っていたのですが、つい」

 今までひっそりと眺めては美しさに感嘆の息を漏らすだけだった首飾り。
 そのか細い銀の鎖を首にかけ、揺れる青海色の宝石を鎖骨に飾る。

 空と海は、常に共にある。
 互いの青に共鳴し、いつもそこに。
 雪の降るこの場所では、どちらの青も見れはしないけれど。

 祈るように手を胸の前で組み合わせ、閉じた瞼の裏に故郷の景色を思い描く。


 ――そこに、青はありますか。




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