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そんな謎に包まれた国の人間が目の前にいるのだ。ロータルが困惑するのも当然だった。
ロータルがなにか言おうとしたが、そこに重ねるようにライナが名乗る。有無を言わせぬ、凛とした響きだった。
「わたしはエルガートがファイエルジンガー家長女、クレメンティア・ライナ・ファイエルジンガーです。宮廷神官としてお城におります。そして、この子はルチア・カンパネラ。わたし達はシエラの友人であり、護衛をも務めます。その旨、よくご理解願います」
いつも穏やかに微笑みを浮かべるライナだが、今この瞬間にそれはない。まっすぐに背筋を伸ばしてロータルを見据え、一切の迷いなく言葉を紡ぐ姿はまさに高家の令嬢と呼ぶに相応しかった。
その雰囲気ばかりでなく、名乗った肩書きにも驚かされた。無論、ラヴァリルとて、ライナの素性はすでに調べ上げて知っていた。彼女がエルガートでも有数の名家であるファイエルジンガー公爵の長女であることも。
そして、アスラナに来てからはその名を名乗ることはなかったということも。
それが今、彼女ははっきりと自分の素性を明かした。聡明なロータルであれば、エルガートのファイエルジンガー公爵が持つ影響力を理解しているだろう。顔にこそ出さないが、内心眉を顰めているだろうことは伺えた。
これは牽制だ。下手な手を打てば、アスラナ王だけでなくオリヴィニスとエルガートを敵に回すことになる。
「そうでしたか。後継者様のご友人でしたら、歓迎致します。いやはや、しかしながら驚きました。後継者様が我ら魔導師にご協力してくださるとは。お知らせいただければ、すぐにでも迎えの馬車をやりましたのに」
話はどこまで進んだのだろう。こんな時間に現れたということは、シエラがアスラナ王の意思でここに来たわけではないことくらい想像がつく。なにより、今のシエラの傍にはエルクディアがいない。
読めぬ展開に困惑するラヴァリルがなにも言えずにいると、シエラは金の双眸を冷たく眇めて鼻を鳴らした。
「勘違いするな。私はあくまで、友人の様子を見に来ただけだ。ここでは私の好きなように動く。先にはっきりと言っておくが、魔導師に協力するつもりもなければ、ここに捕らわれたつもりもない」
「捕らえるだなどと、そんな真似は致しません。丁重におもてなしすることをお約束いたします。この学園におられる間は、決して不自由はさせません。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎください。なにかございましたら、お気軽にお申し付けくださいますよう。――ハーネット、こちらの方々をお部屋にご案内しなさい」
「え、えっと……」
「ランクス寮の客室だ。――オリヴィニスの僧侶殿。後継者様と隣のお部屋でご用意致しますが、よろしいかな?」
「ああ。かたじけない」
話にまったくついていけなかった。
シエラは一体どういうつもりでここに来たのだろう。理事長にはなにを話したのだろう。自分が誘いをかけたことは確かなのにもかかわらず、ラヴァリルにはまったく現状を把握することができなかった。訳も分からぬまま、ランクス寮へと案内すべく部屋を出る。
理事長室の扉が閉まるなり、ラヴァリルは己に迫った怒気を察知した。反射的に身体が動きそうになるが、僅かに残った理性がそれを押しとどめる。しっかりと歯を食いしばった瞬間、小気味のいい破裂音とともに頬に痛みが走った。じんとした痺れが左頬に宿る。じわじわと熱を持つ痛みは、小さな手のひらによってもたらされたものだ。
ラヴァリルを見上げてくる紅茶色の瞳は、今まで見たことがないほど怒りに燃えていた。
「ライナ……」
「もしもう一度シエラに銃口を向けるような真似をすれば、そのときは決して許しません」
シエラはなにも言わない。代わりに、ルチアが「いったそーう」と、はしゃいでいるのか心配しているのかよく分からない声を上げた。
「わたしは、文句を言いに来たんです。貴方達がシエラを利用するというのなら、全力でそれを阻みます。もう一度言います。次は、許しません」
返す言葉の一つも持ち合わせておらず、ラヴァリルは痛む頬に触れることもなく彼女達に背を向けた。冷たい空気が頬を冷やす。
ランクス寮は学園内の最奥に棟を構える寮だ。正門からは最も離れているから、シエラ達が黙って抜け出すことは困難だとロータルは考えたのだろう。
まだ生徒達は眠りについている時間だ。学園内はしんと静まり返っている。自分達の足音だけを聞きながら、ラヴァリルはランクス寮を目指した。客室にはすでに何人かの教師が集まり、大急ぎで支度を整えているところだった。
一人一部屋の用意を考えていたらしいが、本人達の希望でシエラとライナ、ルチアの三人が一つの部屋を使うことになった。そうは言っても間続きの広い客室だから、不自由することはないだろう。アスラナ城の部屋と比べられては形無しだが、彼女達はそんなことは気にしないはずだ。
同じ造りの隣室をバスィールに用意したことを説明し、彼女達が部屋に消えるのを見送った。
扉が閉まる。
ライナの声が、頭の中で木霊する。
「……許してなんて、言うつもりないよ。言えるわけない」
これが間違っているとは思っていない。
学園のためになるのだから、なに一つ間違っているはずがない。後悔だってしているはずがない。今までずっと、そればかりを考えてきた。学園のために。理事長のために。その考えを重荷に思ったことなど、一度たりともない。
シエラの傍にいる間も、純粋に楽しいと思いつつも任務であることを忘れはしなかった。いつかはこうなると、常に思いながら接してきたのだ。
もしもロータルが今すぐライナを殺せと言ったのなら、ラヴァリルはこの手で引き金を引くことができるだろう。
それなのになぜ今ちっとも笑うことができないのか、ラヴァリルには自分のことが微塵も理解できなかった。