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「嬢よ、それはあまりに恐れ多く、口にすれば痴れ者の烙印を押されかねぬ言動だ。慎まれよ」
「そうですよ、ルチア。お願いですからその話、他の人がいるところでは絶対にしないでくださいね」

 ルチアは「なんでぇ?」と首を傾げたが、それはシエラも同じ気持ちだった。実際にするわけでもないのだし、子どもの言うことだからそう真剣に受け取る者もいないだろうに。
 なにかとても恐ろしいことを聞いたとでも言わんばかりのライナの様子を疑問に思いつつも、シエラは遠くに見えてきたリヴァース学園に意識を切り替えた。


+ + +



 まだ夜が明けて間もない頃だった。
 ラヴァリルの部屋の扉を乱暴に叩いた魔導師学園の教師は、返事も待たずにずかずかと押し入ってきて信じられないようなことを言ってきた。その衝撃たるや、リヴァース学園全体が揺れたかのような錯覚を覚えるほどだった。
 相手は無理やり腕を掴んで起こそうと手を伸ばしたらしいが、ラヴァリルはそれを凌ぐ瞬発力で跳ね起きていた。纏められていない蜂蜜色の髪が、窓から差し込む光によって淡く輝いている。
 やっと太陽が地平線に顔を覗かせ始めた頃合いだ。室内はまだ薄暗い。
 弾かれたように立ち上がり、寝着の上に外套(コート)を羽織って部屋を飛び出した。矢が掠めた左腕が痛んだが、そんな痛みに構っている暇などない。靴を履くのも忘れたせいで裸足で駆ける廊下は冷たく、荒ぶる呼吸とは逆に身体が芯から冷えていく。
 泣き出したくなるような不安感と焦燥感に襲われたラヴァリルがノックもせずに開け放った扉の向こうに、美しい蒼が咲いていた。空の青でも、海の青でもない。彼女しか持ち得ない、特別な蒼。
 呼吸が整わずその場に立ち尽くすラヴァリルの前に、極彩色が割り込んでくる。シエラを庇うように立ちはだかった男は、確かバスィールと名乗っていた。腰まで流れる銀髪が揺れている。金褐色の肌に刻まれた美しい刺青(しせい)を持つ男など、一度見れば忘れられない。金の錫杖が、それ以上の接近を許しはしなかった。
 言葉を失うラヴァリルの代わりに、リヴァース学園の王とも言える理事長が満足げに笑う。皺の走る顔に浮かんでいるのは、喜びと優越感だ。

「ハーネット。後継者様はお前を訊ねてきてくださったそうだ。今後しばらく、この学園でお過ごしになられるらしい」

 その言葉に、一瞬思考が停止した。
 ――言った。確かに、待っていると言った。
 嘘ではない。無理やり言わされたわけでもなく、あのときの自分は確かに己の意思で言葉を操った。だが、今目の前に広がる光景を、ラヴァリルは未だ受容できないでいる。
 ラヴァリルに攻撃の意思がないことを汲み取ったのか、バスィールが足を引いてシエラの傍らに控えた。それまで目に入っていなかったが、そこには彼以外にも、ライナと、あのときの少女がシエラに寄り添うようにしてラヴァリルを見つめている。
 ラヴァリルを訪ねてきたという神の後継者に、半ば唖然としながら問うた。

「……本当に来たの?」
「不可思議な問いをする。貴女が姫神様にそれを望んだのだろう」

 紫銀の瞳を細めて首を傾げるバスィールから、ラヴァリルは逃げるように目を逸らした。
 彼がオリヴィニスの僧侶だと分かった今、あの目を直視するのは嫌だった。あまりにも美しい、星の光のような瞳。しかし、あの瞳はすべてを見通す。心の奥深くまで。望まぬところまでを、静かに、けれど確実に。
 たとえ疚しいところがなかったとしても、胸の内を見透かされていると考えるだけで身体が震えた。少なくとも、ラヴァリルにとってそれは苦行でしかなかった。
 目を合わせないラヴァリルになにを言うでもなく、バスィールは静寂を守っている。その沈黙ですら痛い。どうか覗いてくれるなと強く祈ってみたが、この思いすら見透かされているのだろうか。
 ちらりと盗み見たバスィールは微塵も変わらぬ表情のまま小さく首を振り、「我らオリヴィニスの高僧でも、触れぬ限り心は読めぬ。案ずることはない」と言った。それで信じろという方が無茶だ。
 あからさまに怯えたラヴァリルを見かねたのか、理事長が悠然とした態度で助け船を出してきた。

「ところで、貴殿らは後継者様とどのようなご関係なのですかな」

 ライナ以外の人物がどこの誰なのか、ラヴァリルにも分からない。理事長はそれを感じ取ったのだろう。定期的にシエラの身辺情報は報告していたから、そこにない彼らが気になったらしい。
 真っ先に応えたのは、意外なことにバスィールだった。

「オリヴィニスがシャガルの僧、バスィール・ソヘイル・ジア・マクトゥームと申す。こちらにおわす姫神様にお仕えすべく、この国へと参った」

 毅然とした態度で言い放ったバスィールは合掌して頭を下げたが、その眼差しはあくまで対等な立場にいることを伝えていた。オリヴィニスと聞いて、理事長であるロータルの表情が若干険しくなる。
 それもそうだ。ずっと資料でしか知られていなかったその国は、それでいてとてつもない脅威を秘めているのだから。
 知識のある者ならば知っている。教育者であるならなおさらだ。この世界の歴史を語る上で、オリヴィニスという国は欠かせない。
 ホーリーが難攻不落の堅城を構える国だとすれば、オリヴィニスは国土そのものが決して落とせぬ城だった。誰もその城壁を越えられず、傷一つつけることができない。オリヴィニスの盾は未だかつて一度たりとも破られたことはなく、また、オリヴィニスの土を踏んで戻って来た者もいない。


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