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 澄んだ瞳に見つめられて落ち着きを取り戻したバスィールは、深々と頭を下げて了解の意を示した。真白き神の御子に仕えることは、オリヴィニスの僧侶にとって、他のなににも代えがたき誉れだ。
 アフサルが、ようやっと昇り始めた朝日に目を向けた。浅黒い肌に刻まれた美しい紋様と年相応の皺が、筋骨逞しい男の魅力をさらに高めている。しかしその溢れ出る生気と貫禄が、五十を過ぎているとは思わせない若々しさを醸し出していた。
 陽の光に照らされた二人の僧侶は互いに沈黙の中で、夢に見た蒼を思い描いて語らった。言葉など必要なかった。あの美しさを表現する言葉など、自分達は持ち合わせていなかったのだ。
 日が昇る。
 オリヴィニスの門を開くため、十二の大師がここに集まるだろう。

「――オリヴィニスがシャガルの僧、バスィール・ソヘイル・ジア・マクトゥーム。すべてを見通す星の光を宿す者よ。神のお導きに従いて、今ここに大役を果たせ」

 すべては、くちづけから始まった。


+ + +



 夜に紛れて城を抜け出したシエラ達は、肌を刺す風の冷たさに身を震わせた。秋を遠ざけた冬の王者が、凍てつく衣を翻して君臨している。冬の王がその杖を一振りするたびに、冷えた風が吹き荒れているかのようだった。
 頭上には満天の星空が広がっており、金銀様々な輝きを見せている。瞬く星の一つが、シエラのやや斜め後ろを歩く男の瞳に重なって見えた。金褐色の肌とは対照的に、背に流れる髪は輝く銀。瞳は銀に紫を一滴落としたような不思議な色だ。
 オリヴィニスの高僧は、裸足のまま冬のクラウディオ平原を進んでいた。

「……寒くはないのか?」

 外套(コート)を着込んだシエラとライナとは違い、バスィールとルチアは夏でも通用するような薄着でいる。見ているこちらが寒々しくなってくる装いだというのに、ルチアは「へーき!」と笑い、バスィールは「これも修行ゆえ」と返す有様だ。ライナと顔を見合わせて首を竦め、まだ見えぬリヴァース学園を目指した。
 さすがに馬を拝借することは難しかったため、四人は徒歩でリヴァース学園へ向かっていた。歩いて行ったとしても、夜明け頃には着く距離だ。バスィールはシエラを気遣ってくれたが、シエラとてこの程度の距離を歩くことには慣れてきている。
 ルチアは彼のことを大変お気に召したらしく、ひっきりなしにあれこれ聞いてはしゃいでいた。なにを聞いても丁寧に答えてくれるため、嬉しくて仕方がないといった様子だ。
 そんな二人を見ながら、シエラはそっと切り出した。

「なあ、バスィール。ジアと呼んでもいいか?」
「ジア、ですか?」

 少し驚いたような顔をして、バスィールが聞き返す。

「駄目か? バスィールという名は、私には少し呼びにくいんだ。ソヘイルも。だからと思ったんだが……。“ジア”もお前の名だろう?」
「姫神様がお望みとあらば、お好きなように呼んでいただいて構いません。――“ジア”という名は、生まれた折に両親から頂いたものにございます。私のはじまりの名を姫神様に呼んでいただけるとは、なんとも感慨深いことにございます」

 今にも跪きそうなバスィールを慌てて止めて、城を出る前に無理やり約束させた「跪拝禁止」を突きつける。バスィールはひどく困った顔をしたが、十も年上の男に所かまわず跪かれるのは迷惑だ。曲げかけた膝をなんとか伸ばした彼は、せめてもの礼儀とばかりに胸に手を当てて頭を下げた。
 その背の向こうに、星が瞬く。

「“ジア”が親にもらった名ということは、他の名は親がつけたんじゃないのか?」
「はい。我らオリヴィニスの僧侶は、僧籍に入った際に新たな名を授かります。その後、階位が上がるにつれ、名も増えていきます」
「では、今のお名前は比較的新しいものなのですか?」
「いかにも。“バスィール”はシャガルの位を授かった折、師によって名づけられた。“ソヘイル”は僧籍に入った折に頂いた名だ」

 オリヴィニスの僧侶の名が揃って長かったのは、こうした理由があるかららしい。シャガルとはどの程度の位なのかと尋ねたところ、上から三番目の階位であると聞かされた。全十五階位だと言うから、どうやらバスィールは相当な高位の僧侶だということになる。
 オリヴィニスではどれほど名が増えようとも、現在の階位の名と僧籍に入った折の名、そして生まれながらの名の三つを名乗ることが通例なのだという。すべて名乗れば、三位のシャガルにいるバスィールの名は、今以上に長いということになる。
 シエラとライナでははっきりと言葉を使い分けた彼は、薄い僧衣を凍てつく風に靡かせて錫杖を持ち直した。歩くたび、錫杖の先につけられた遊環(ゆかん)が涼しげな音を立てる。一つ欠けているのは、彼がこの錫杖でラヴァリルの銃弾を阻んだからだ。
 開いた胸元から覗く身体には厚みがあり、筋肉が息づいているのが分かる。並外れた勘と反射神経を持つ彼は、シエラをじっと見つめて言った。

「どうぞジアとお呼びください、姫神様。私のはじまりの名を、どうか」

 その眼差しのひたむきさに、思わず足が止まっていた。跪かれたときのような気恥ずかしさに襲われ、シエラはなんとも言えずに唇を引き結ぶ。隙間から漏れ出た吐息が、白く曇って夜に散った。


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