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*第26話


 箱庭には王が住む。
 銀弓が闇を駆け、蒼く陰る水面の月を射抜き散らしゆく様を、箱庭の王は高みより見下ろす。
 靄のかかったこの世に、伸ばした手の先さえ見えぬこの世に、王は一体なにを見るのか。
 
 そんな箱庭の王を、神が見る。

 白き御名を持つはじまりの女神は、そのくちづけによってこの世を生み出した。
 太陽の放つ射抜くような光に、月の放つ零れるような光に、真白き神はその清廉なる唇を与えた。
 やがて世界を飲み込む闇にすら、真白き神はくちづけた。
 
 神の創りし世にありて、なにゆえ人は自らの世を求めるのか。
 神の創りし世に、人は箱庭を造った。

 ――箱庭には、王が住む。
 


箱庭の王



 その日、まだ陽も昇らぬうちに目を覚ましたバスィールは、胸の詰まるような感覚に囚われていた。
 寝着の乱れを直して、すぐさま硬い床に跪いて天を仰いだ。眦から熱い雫が伝っている。深く叩頭し、しっかりと祈りの言葉を紡ぐと、涙の痕を拭うのもそこそこに僧衣に着替えて部屋を飛び出した。
 外はまだ薄暗く、朝告げ鳥ですら眠る時刻だ。人を訪ねるには非常識極まりない時刻であったが、朝まで待ってなどいられなかった。砂利を踏む裸足の足の裏が、普段は感じない小さな痛みを覚える。それほど五感が敏感になっているのだと気がついたとき、バスィールはすでに師の寝起きする部屋の扉を打ち鳴らしていた。
 扉を三度叩くよりも早く、身支度を整えた師が姿を見せたので、バスィールは紫銀の双眸を軽く瞠った。「入れ」短く促され、深く礼をして室内に上がる。着席を許されるなり、厳しい修行を積み、元の性質もあいまって常に沈着冷静で知られる彼にしては珍しく、動揺した口ぶりで言った。

「お師様、夢を見ました」
「蒼き夢か」
「お師様もご覧になられたのですか」

 バスィールよりもさらに顔に刺青(しせい)を彫り込んだ五十がらみの男は、弟子の言葉にゆっくりと頷いて香炉に火を入れた。草の香りが室内に立ち込め、あれだけ逸っていた心が徐々に落ち着いていく。シャガルの位にありながらもこうまで取り乱していたことに、バスィールは深く恥じ入った。
 バスィールの師、ナルゲスのアフサル・ヴァファー・ハナン・マナーフは、癖の強く出た黒髪を複雑に結い垂らし、静かに瞑目した。

「わしに限らず、十二の本山すべての大師が共通して見たであろう」

 その言葉に、バスィールは息を飲んだ。
 オリヴィニスには約十二万の僧侶がおり、全国で四千近くの寺院がある。それらの寺院を地域ごとで統括するのが僧院だ。全部で十二の本山があり、そこに僧院を構えている。僧院の代表者であり、外の感覚で言えば僧院を率いる長とも呼べる存在が、大師と呼ばれる人々である。大師は最高位のナルゲスの中から選ばれる決まりとなっていた。
 アフサルは、ここバルティアール僧院の大師であった。

「お師様……。シャガルでありながら、私は己の夢解きに自信が持てずにおります。お師様がご覧になられた夢は、誠に私と同じ夢でしたのでしょうか」
「真白き神の御子である姫神様が顕現し、蒼の光を纏いてお前の前に現れた。蒼の光はお前を包み、――そして、その唇をお与えになった」
「……お師様。ではあれは、天啓だと……」
「バスィール。我らはオリヴィニスの僧。神の与えし夢に、なにゆえ瞼を閉ざすことができようか。すべては神のお導きのままに。お前は、選ばれたのだ」

 それは、どんな青とも異なっていた。
 晴れ渡った空の青でも、深く澄んだ海の青でもない。雪の影でもなく、川底の色でもなかった。ならば宝石か。いいや、違う。あの蒼い光は、今まで目にしたことのあるどの青でもなかった。
 その蒼い光に包まれ、バスィールは導かれた。真白き神の御子が手を伸ばし、シャガルの位を示す刺青を彫り込んだ頬に触れ、清らかな唇で何事かを呟いた。光が弾ける。門を開けと、真白き神の御子が言う。
 そして、真白き神の御子は慈しむようなぬくもりを、バスィールの唇に施したのだ。

「もうすでに、他の大師達がここに向かっておる。……五日後には、お前はかの国へ発つことになるだろう」

 長きにわたり閉ざされてきたオリヴィニスの門を、今開くという。
 この程度の寒さはなんでもないはずなのに、バスィールは身体の芯から冷えていくような感覚を覚えて身震いした。己の修行不足を痛感する。

「お師様、かの国へ赴くことに不満はございません。すべては修行。あるがままに受け止めましょう。なれど、姫神様にお仕えするという大役は、私よりも相応しい方がおられるのではと――」
「バスィール。お前はなにを思い違っておる? よいか、これは我らが定めたことではないのだ。神のお導きにより、我らは蒼の夢を見た。選ばれたのはお前なのだ、バスィール」
「……申し訳ございません。気が動転しておりました」
「致し方あるまい。わしも、よもや生きているうちにかような夢を見るとは思わなんだ。――我が弟子よ。誠心誠意、姫神様にお仕えするのだぞ」



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