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「クレメンティアがね、『貴方は困っているシエラを助けることができますから、だからこのお部屋から出てはいけないんですよ。絶対に』ってゆったの。絶対に絶対にぜーったいにだめだってゆって」
「それって、……いや、まさか」
「ねえシエラ、シエラはなにを助けてほしーの? ルチアね、シエラのこと好きだからなんでもしたげるよぉ!」
ころころと笑うルチアの身体を抱き締めて、シエラは思わず天井を仰いだ。どうやらホーリーという国は、とんでもない影響力を持っていたらしい。
「ルチア、私はこの城を抜け出したい。その前に、ライナに会いたい。そのためにはどうすればいい?」
「んー、ルチアは窓から出られるけど、シエラは無理だよねぇ? じゃあ、お部屋から出よ? 見張りは、」
「殺すなよ」
「分かってるよぅ! ちょーっと眠ってもらうだけ! 毒じゃないからへーきだよ。それでクレメンティアのお部屋まで行って、外に出ればいいんだよねぇ? ――うん、できるよ! ルチアにまっかせて!」
赤い舌が唇を舐める。その仕草には少女とは思えぬ妖艶さがあった。今はまだ薄い胸元に、琥珀の首飾りが揺れている。
歴戦の戦士といるような頼もしさを持つルチアとともに、シエラは足音を殺しながら寝室の扉をそっと開いた。即座にルチアが腰に提げていたポーチから小瓶を取り出し、蓋を外した状態で部屋に転がす。ほんの数分の間に、侍女達はぐっすりと眠りに落ちていった。
廊下に出てもルチアの手際は変わらない。どんなに気をつけても足音のするシエラとは裏腹に、ルチアは大きく跳ねてもまったく音がしなかった。物陰を進み、見張りの兵士を眠らせ、そうしてライナの部屋まで辿り着く。
静かに扉を開けて部屋に入ると、来訪を予期していたかのように、鈴を転がすような笑い声がシエラ達を迎え入れた。
「まったくもう。本当に抜け出してきたんですね。無茶はしないでくださいとあれほど言ったのに」
「ライナ、だがこれは……」
「お前が仕組んだんじゃないのか」と言おうとして、声が喉の奥に絡んだ。薄闇の中に見えるライナの紅茶色の瞳が、未だかつてないほど激しく燃え上がっていたからだ。壮絶な怒りにまみれたそれは、シエラの言葉を奪うのに十分すぎる威力を持っていた。
ライナが笑う。身体の芯から凍えそうなほど、凄絶に。
「わたし、怒っているんです。あの二人に、とーっても。ここで動くのは愚の骨頂だと分かってはいます。陛下に背くことにもなるでしょう。でもね、シエラ。わたし、怒っているんです」
見れば分かるとは言えなかった。
ライナが外套(コート)を羽織っていることに気がついたのはそのときだ。もう彼女は、軽い旅支度ができている。
「……ライナ、もしかしてお前も行く気か?」
「どうして貴方一人だけで行かせる思ったんですか? それこそ向こうの思う壺です。そんな馬鹿な真似は出来ません」
「しかし、ライナが来ても余計にややこしくなるんじゃないか? お前は聖職者だし、それに貴族の娘なんだろう」
「“聖職者”はともかく、“クレメンティア”を傷つけようものなら、魔導師さん達はエルガートのファイエルジンガー家とホーリー王家を敵に回すことになります。まさか、さすがにそこまで愚かな真似はしないでしょう」
手袋を填めた手を口元に添えて笑う姿はいつも通り愛らしいのに、極寒の地にいるような寒気に襲われてシエラは身震いした。これほど怒り狂っているライナを見るのは初めてだ。怒鳴り散らしたりしない分、余計に恐ろしく感じる。
シエラとルチアの分の外套(コート)もすでに用意していたらしく、手渡されたそれは見るからに高級品だった。どうやらライナの私物らしい。
「いくらルチアがいるとはいえ、お前が行くのはやはり危険な気がするんだが……」
「はい。向こうはもちろん、道中なにがあるか分かりませんからね。ですから、手は打ちました」
暗闇に向かって「どうぞ」と手招いたライナの視線を追って、シエラはこれ以上はないほど間抜けな顔で固まる羽目になった。
暗がりの中にぼんやりと浮かぶ、美しい銀の髪。蝋燭の明かりに照らされ、時折金属がきらりと光る。顔はよく見えない。その肌が闇に溶けているからだと、嫌でも分かった。もっと明かりがあれば、目にも鮮やかな極彩色の僧衣がはっきりと見えたはずだ。
その肌に刻まれた、美しい紋様にも。
「ライナ! お前、どっちが無茶だ!? 私よりもよほど無茶な真似をしているだろうが!」
「バスィールさんは快く引き受けてくださいました。なによりもシエラが望むのなら、と。それにオリヴィニスの方が協力してくださるのであれば、陛下だってごちゃごちゃ言いません」
「ごちゃご……、ライナ。お前、頭でも打ったのか? エルクが聞いたらひっくり返るぞ」
「言ったでしょう、シエラ。――わたし、怒っているんです」
その笑顔にぞっとした。これが本当にあのライナなのかと、誰とはなしに小一時間話し合いたい気分だった。
二の句が継げなくなったシエラの足元に、躊躇いもなくバスィールが跪く。他の貴族の男のように、彼はシエラの手を取って口づけるような真似はしなかった。ただ、静寂を保ったまま、こちらがたじろぐほどまっすぐに見つめてくるだけだ。
オリヴィニスの高僧は、紫銀の眼差しでシエラを射た。
「姫神様のお望みのままに」
シエラの目の前で、美しい銀が揺れる。
――引き絞られた銀弓が、今、矢を放つ。
(2014.08.29)
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