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 暗くなる前に帰ろうと思っていたのに、近所のおじさんが酔って倒れていたせいで思わぬ足止めを喰らってしまった。
 あっちだこっちだと連れ回されたあげく、踏み倒していた酒代まで負担させられそうになったのだから、本当についていない。それでなくとも今日は朝から不運なこと続きだったのだ。

 あの子のためにと思って買った首飾りはどこかで落とすし、親切に道を教えてやった見知らぬ女には財布を掏られた。無一文でふらふらと町を歩いていたら花屋に頭から水をかけられ、危うく風邪を引きそうにさえなった。
 まさに踏んだり蹴ったりの一日だ。気を抜けば零しそうになる溜息をぐぐっと飲み込みつつ、彼は家路を急いでいた。
 見上げた空の雲は厚く、いつもならば照らし導く星は見えない。月明かりも朧げで、頼りになるのは家々や店から漏れてくる明かりだけだった。
 はっきりしない視界の中、できるだけ早く帰ろうと近道である路地裏に足を踏み入れる。
 アスラナ王国の王都クラウディオは治安が良い。それもこれも年若い青年王と、騎士団を筆頭とする有能な兵士らがいてくれるおかげだ。
 だからこうして真夜中の一人歩きができる――と、彼は安心しきっていた。

「……え」

 なんだあれ、と間の抜けた声が思わず出た。
 路地裏というどこか表通りからは切り離された闇の中、爛々と光る血のような赤が彼を射抜く。
 一歩後ずさった彼の耳に獣特有の低い唸り声が聞こえ、彼は心底、本日の運勢の悪さを呪った。



 いつも通りの朝がやってきた。
 鶏がけたたましく鳴いて朝を告げ、がちゃがちゃと揺れる牛乳瓶の音が辺りに響く。
 おはようと挨拶を交わす人々の声に合わせるようにして犬が鳴き、塀の上を猫がすまし顔で渡っていく。
 パンの焼ける匂いが道行く人の鼻腔をくすぐり、家の窓から見える大きな城では兵士が旗を揚げているのが見えた。
 これが普段となにも変わらない朝。城下町の朝だ。
 セルラーシャ・グローランスは外の空気を肺一杯に取り込み伸びをすると、澄み切った青空を見上げて満足そうに瞳を眇めた。暁色をした髪は耳の上の高い位置で一つに纏められ、白い布で無造作に結ばれている。ひらひらと早朝の清々しい風に煽られて揺れるそれは、そのたびに紅茶の香りを放っていた。
 石造りの家の脇に置いてあった水桶を小さな掛け声と共に持ち上げて、彼女は近くの井戸までよたよたと歩いていった。
 中身は空だというのにその足取りは危うさを孕み、ちょっとした段差に躓く始末だ。近所の老婆がそれを見て心配そうに苦笑していたが、彼女はへらりと笑って誤魔化した。
 朝の水汲みは毎日やっているのだが、どうにも慣れない。空の桶でさえ運ぶのに一苦労なのに、中に水を汲んだとなれば持ち帰るのはかなりの苦行だ。家までの短い道のりで、中身を零してしまうことも多々ある。

「セル、おはよ」
「あ、おはよっ」
「おいおい、お前まだ水汲んでねぇのにバテてんの?」
「仕方ないじゃない、か弱いんだから!」

 くすくすと笑いながら近づいてきた男は袖を肩まで捲り上げ、腕を剥き出しにしていた。力仕事でついたのであろう筋肉は逞しく、肌は健康的に焼けている。年の頃は二十代半ばといったところで、薪割用の斧を肩に担いでいた。
 井戸の近くで早くも腰を下ろして休憩しているセルラーシャを見て、彼は苦笑する。

「か弱いー? とんだおてんば娘のお前が? あーあー、か弱いが聞いて呆れるな」
「うるっさいなぁ、ルーンは! そんなんだから二十五になってもケッコンできないんだよっ!」

 勝気な瞳がきらりと輝き、頬を膨らませたセルラーシャがルーンに牙を剥く。幼い仕草に彼が呆れたように首を竦めるのがなおさら気に入らなくて、すぐ近くまでやってきていた彼の足を思い切り踏みつけた。
 途端に怒声が飛んでくるのだが、物心ついたときから聞き慣れているためになんの効果も持たない。ふんと鼻を鳴らして舌を突き出せば、ルーンのすました表情が崩れ去る。



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