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最後の別れの挨拶をし、シエラ達はようやっと船に乗り込んだ。ゆっくりと船が岸から離れる。船縁から港を覗くと、シルディが大きく手を振ってきたので振り返す。隣に立つライナの眼差しはとても優しく穏やかだったが、どこか少し、寂しそうにも見えた。
「あっ! レンツォ!!」
「え? なんだ、結局来たのか、あの男」
必死になにかを探していたルチアが嬉しそうに笑ったと思ったら、シルディ達の後ろにレンツォの姿が見えた。馬でも飛ばしてきたのだろうか。薔薇色の髪はとてもよく目立つ。彼はこちらを見て、いつもの不愛想な表情で軽く礼をした。
ルチアが懸命に手を振っている。「レンツォーーー!」大声に苦笑して、彼は小さく手を振った。それだけでルチアの頬が柔らかく上気する。本当に嬉しそうで、見ているこちらの頬が緩みそうになる。
「クレメンティア!」
ルチアに負けじとシルディが叫び、ライナが素っ頓狂な声を上げた。口元に手を当て、こちらに届くようにと王子が必死に声を張り上げる。
「――だいっすきだよ!!」
きっとあの声は、市場にも聞こえていただろう。
リオンも蓼の巫女も、堪えきれないとばかりに腹を抱えて笑っているのが見えた。レンツォがやれやれと肩を竦めている。囃し立てる声を気にした風もなく、シルディは清々しい笑みを浮かべていた。しばらくしてもライナがなにも言わないことを不思議に思ったのか、首を傾げてもう一度口元に手を添える。
「クレメンティア、だいす、」
「何度も言わないでください聞こえてます! この馬鹿王子っ!! ――ちゃんと、聞こえてますから……」
顔を真っ赤にして怒鳴ったライナは、恥ずかしそうに口元を手で覆ってそう言った。怒鳴った台詞はきちんと届いたのか、シルディが満足そうにしている。
横目で見たライナの顔は、耳まで赤く染まっていた。その耳朶を見たことのない、青い石のピアスが飾っている。色鮮やかなホーリーブルーだ。きっと、彼からの贈り物なのだろう。それくらいは、シエラにも想像がついた。
ばかおうじ。そう呟くライナの紅茶色の瞳は、今にも泣きそうなほど潤んでいる。そんな彼女とシルディを見比べ、それからふいに、後ろに立つエルクディアへと視線を移動させた。
「……どうした?」
「なんでもない。――綺麗だなと、思って」
「ああ、そうだな。綺麗な、青だ」
頭を撫でてくるエルクディアの手が、あたたかかった。
少しずつ、シルディ達が小さくなっていく。
彼らが見えなくなるまで、シエラ達はそこに居続けた。
青い空と海の境界が、どこまでも続いている。白い壁の家々、高くそびえたロルケイト城の尖塔。すべてが小さく、遠のいていく。ルタンシーンの守る海の上を滑りながら、聖なる国に別れを告げた。
「あっ、見て見てシエラ、人魚だよ!」
美しい歌が聞こえた。
神に愛された、清らかな歌が。
「さあ、帰るか」
海神の愛する優しい歌が、青に溶けた。
+ + +
――だいっすきだよ!
大声でそんなことを叫んで手を振り続ける王子の後姿を見つめながら、リオンはそっとレンツォに近寄った。
仕事で見送りには来られないと言っていたくせに、わざわざ馬を飛ばしてやってきたのだから、なんだかんだ言っても、やはりこの男は身内に甘い。
そっと隣に寄り添えば、「なんですか」と冷たい視線が降ってくる。乱れた髪に乱れた衣服。らしくない格好に、思わず吹き出しそうになった。
「よかったわね。王子が残ってくださって」
「はい?」
「もしも王子までルチアと一緒にアスラナへ行ってしまっていたら、あなた、寂しくって泣いていたでしょう。いつの間にかご立派に成長なさっていて、驚いたわ。もう子供じゃないのね。……それなのにレンツォったら、嬉しいくせにいつまで経ってもつれない態度をとるだなんて」
「馬鹿なことを」
鼻で笑ったレンツォは、リオンの方をちらとも見ない。灰色の双眸が眩しそうに見つめるのは去りゆく船ではなく、それを見送るシルディの背中だ。
「あら、素直じゃないのね。今回、王子がどれほど、」
「嬉しいに決まっているでしょう。あれは、私の王子ですよ」
「えっ?」予想だにせぬ回答に、思わず声が裏返った。目元を和ませただけでは飽き足らず、唇に笑みまで刻んだレンツォが、からかうようにリオンを一瞥する。
「可愛い可愛い王子様を、アスラナなんぞに誰がくれてやるものですか。あれの成長が嬉しいだなどと、そんなこと、今さらあえて言うまでもない。あなたは本当に、馬鹿なことを仰いますね」
「……呆れた。あなたって、本当にいい性格をしているのね」
「それもまた今さらでしょう。――王子! そろそろ帰りますよ! 蓼巫女さんも! ゴルドーさんが探していました」
「あいやっ、また怒られてしまいますですー。ほいたら皆さま、お先に失礼をっ!」
脱兎のごとく立ち去った蓼の巫女のあとには、ひらひらと名残を惜しむように花びらが舞った。
船はもう、点にしか見えないほど遠ざかっている。じっとそれを見送り続けていたシルディがようやっとこちらを向き直り、隠しきれない寂しさを滲ませた笑顔で言った。
「よーっし、これからも頑張らなくっちゃ!」
「おや、思いのほか前向きですね。もう少し落ち込むかと思いましたが」
「もちろん寂しいよ。でもね、約束したから。この国をもっと素敵なものにして、それで言うんだ。『ホーリーへようこそ!』って」
「それはそれは。そのためにはせいぜい努力なさい。溜まった書類が山積みですよ」
「うっ……、分かってるよ」
港を離れるシルディの斜め後方にそっと立ったレンツォは、とても誇らしげに見えた。
この男は、本当に――。口には出さず、リオンは内心そうぼやく。
「それじゃあ、帰ろっか」
ともすれば頼りない柔らかな笑顔なのに、どうしてこうも安心するのか。
リオンもまたシルディの傍らに控えて、ロルケイト城へと歩み始めた。
――帰ろう。
あるべき場所へ。
「あっ、見て、レンツォ、リオン! ほら、人魚! クレメンティア達も会えたかなぁ……」
――帰ろう。
未来を望む、その場所へ。
青い海に、人魚の歌が響く。
空はそこにありますか。
海はそこにありますか。
青はそこに、ありますか。
歌は重なり、やがてそれは謳となる。
海神の愛する謳よ。
どうか我らと、――永久に、共に。
+FIN+
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