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*第25話


 瞳を閉じれば、潮騒が聞こえる。
 胸の奥から、静かに、けれどはっきりと。
 すべての母であり、すべてが還る場所でもある海の歌が、聞こえる。
 指先に伝う痺れは、海神の雷(いかずち)だろうか。

 呼び寄せた闇に、銀が駆ける。
 弓を持て、矢を番えよ。
 放たれた矢は風を裂き、もう二度と戻らない。

 水の流るる音を聞け。
 すべてが凍る声を聴け。
 銀弓よ、月すら射抜き、太陽を割れ。
 銀弓よ、闇を駆けよ。


 ――美しい蒼の世界に、誘おう。



銀弓に惑う



 窓の外には白い雪がちらついている。それは踊るように舞い落ち、柔らかく降りてきてはしばらくそこに留まった。
 王都クラウディオには特殊な結界を施しているため、どれほど雪が降ろうと深く積もることはあまりない。それでもアスラナは、厳しい冬が訪れることで知られている。ゆえに王都でも毎日雪が降り続ければ、町並みはすっかり白く染め変えられていた。
 南下すれば、同じアスラナとは思えぬほど温暖な気候の地域も存在する。ユーリはそこの出だった。冬でもさほど寒さに困ることはなく、幼い頃は雪など見たこともなかった。聖職者の証に従って王都へとやってきて、その年の冬に初めて雪を見たことを思い出した。刺すような空気に、手も足も、鼻の頭すら真っ赤になっていたというのに、あまりにも綺麗な白い結晶に夢中になって外に立ち尽くしていた。
 今ではもう、あんな風に雪の落ちる空を見上げることはなくなってしまった。それがどこか寂しく感じると言えば、「黄金(きん)の竜」の異名を持つ友人は笑うだろうか。
 暖炉の火が大きく爆ぜ、それが扉を叩く音と重なった。しばし書類から目を離してぼんやりとしていたユーリは、そのせいで僅かに反応が遅れた。二度目の声かけで入室を許可すると、伝令役の男はどこか落ち着かない様子で頭を下げた。

「ただ今、神の後継者様がお戻りになられました」
「――そう。では、迎えに行こうか」
「陛下。その、それが……――」

 言いにくそうに告げられた内容に、ユーリは軽く目を瞠った。――なんとまあ、思いがけない土産物がついてきたものだ。予想外の知らせに、伝令自身も戸惑いを隠せないのだろう。垂れ下がった眉が彼の胸中をありありと語っている。
 立ち上がれば、動きに合わせて豪奢な法衣が相応の衣擦れの音を立てた。凍てつく風すら感じさせない手触りの良い毛皮を重ねたそれは、火を焚いた室内では少し暑いくらいだ。

「藍晶石の間へ彼らを呼んでくれるかい? 疲れているところ可哀想だけれど、彼らには一刻も早く伝えなければならないことがある。――特に、王都騎士団総隊長にはね」


+ + +



 大型船に揺られながら、ふとした瞬間にぐっと気温が冷えたのは感じていた。夏と秋を隔てる線、秋と冬を隔てる線、そんなものが明確に引かれているかのように、ある境を機にぐんと寒くなったのだ。
 頭上に広がる雲が分厚さを増し、そこから鵝毛(がもう)のように雪が降り落ちてくるのを見て、シエラはようやく季節が冬に移り変わっていたことを知った。年中温暖なディルートの地では、冬の訪れなどまったく感じなかった。白く染まる港町から馬車を乗り換えて王都クラウディオへ再び足をつけた瞬間、なんとも言えない懐かしさに胸を衝かれた。不思議なものだ。王都で生まれたわけでもないのに。
 城門が近づいてくるにつれ、馬車の窓を覗くルチアがはしゃいだ声を上げた。ホーリーで見たどの城よりも大きいと笑い、満面の笑みを浮かべて立派な尖塔を指さしている。その小さな頭に腹這いになったテュールが、応えるように小さく鳴いた。

「なんだかとても懐かしく感じますね」
「ディルートには雪なんか降ってなかったからなぁ。二ヶ月以上も向こうにいたんだ、それも仕方ないさ」
「ああ……、他の仕事がどれほど溜まっているか、考えただけで胃が痛みます……」
「……頼むライナ、あんまり考えさせないでくれ」

 エルクディアとライナは揃って複雑そうな表情で城を眺めていたが、シエラにはそのような心配はない。あそこに戻ったところで、己に為すべき「仕事」が明確には分からない。
 しなければならないことは分かった。先は見えた。だが、青年王に与えられるままの祓魔を行うだけでいいのだろうか。それを疑問に思ったところで、他に案があるわけではないから難しい。
 三の門をくぐり、二の門を抜け、それを何度か繰り返すうちに、馬車はゆっくりと動きを止めた。窓の向こうに、アスラナの紋章旗が揺れている。それを掲げるのは立派な甲冑に身を包んだ男達だ。
 馬車を前に誰もが姿勢を正し、敬礼する。ノックのあと、扉がそっと開かれた。恭しく腰を折って手を差し伸べてきたのは、歳を重ねた侍従長でもなければ女官長の類でもなかった。

「――お帰りをお待ちしておりました、後継者殿」

 皺と傷だらけの手は、老いてもなおその身体が逞しいことを黙して語る。額の後退した頭を上げ、小粒の瞳を和ませた老騎士は、シエラの隣に目を向けて軽く鼻を鳴らした。

「よく戻ったな、エルク」
「オーグ師匠! 師匠が出迎えなんて、」
「御託はいい、さっさと陛下に帰国の挨拶を済ませてこい。――シエラ様、老いぼれの手で申し訳ございませぬが、お手を」
「ああ、ありがとう」

 肉刺が潰れて硬くなった手のひらにそっと手を預け、導かれるままに降車した。外に出た瞬間、急激に寒さが身に染みた。吐き出した息が白く染まり、ぴゅうと吹き抜ける風に攫われて消えていく。誰の手も借りることなく飛ぶように馬車を降りたルチアが、初めてのアスラナ城に歓声を上げた。


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