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「なにをするっ!」

 切り裂かれて垂れ下がった布を必死で元に戻そうと胸元を押さえた手は、強い力で抑え込まれた。手首が冷たい。再び後ろに傾き、横たえられた体を拘束しているのは、その場に溢れる水だった。水が強固な手枷となり、シエラを捕らえて離さない。
 ルタンシーンが大きな手を、その胸元へとかざした。鎖骨の上で揺れるホーリーブルーの首飾りの下で、より冷たい感覚が迸る。
 その場を、青い光が満たした。
 ルタンシーンの鎖骨の下に、水を思わせる流線を組み合わせた形の痣が、はっきりと浮かび上がった。その痣は、時折光を放って揺れ動く。
 波音が聞こえた。穏やかな海の、心地よい波の音が。

「思い出せ、姫神よ。“すべてはくちづけから始まった”のだ」

 水鏡が目の前に生まれ、その中に自分の姿が映り込む。肌蹴た胸元――ちょうど、鎖骨の下辺りに、ルタンシーンに浮かんだそれと揃いの痣が浮かんでいる。淡く光るその痣は、ルタンシーンがかざした手を退けると、すうっと消えていった。白い肌の上にはなにもない。今し方見たものが、まるで夢だとでも言うように。
 ――すべてはくちづけから始まった。
 加護を身に刻むとは、こういうことだったのだろうか。
 ルタンシーンの苛烈な神気が肌に刺さらないのも、彼の力をこの身に宿したからなのだろうか。

「ゆめゆめ忘れるな。お前は神ではない。なれど、その身は人でもない。脆き器に魔が移り込めば、それすなわち破滅を意味する。呑まれるな、姫神よ。貴様が闇に墜ちるならば、このルタンシーンの雷がその胸を貫こうぞ」

 水鏡が霧散し、ルタンシーンがその場を離れた。神は横たわる蓼の巫女を一瞥し、軽く三叉槍の柄でつついている。
 ゆっくりと身を起こしたシエラは、胸元を押さえるのも忘れ、彼の横顔をじっと見つめていた。もう得体の知れない恐怖は感じない。代わりに潮騒が聞こえてくる。
 濡れた髪から、雫が落ちた。

「私は……」
「どれほど人の子と叫ぼうと、その魂は貴様を裏切る。無様な姿を晒すな、姫神よ。神に抗い、道を違えるな。――さあ、もう去れ。用は済んだ」
「お前は本当に、勝手だな……!」
「人の子には負ける。あれは容易く約束を違え、神を意のままに操れるものと思い上がっておる。神は神、人は人、魔は魔。それらの境界を割るは、まがいもののみ。なれどまがいものは、なによりも脆い」

 金の瞳を伏せたルタンシーンは、その唇にうっすらと笑みを浮かべてそう言った。
 至聖所から立ち去る間際、シエラは神を仰ぎ見て、どうするか散々迷った言葉を投げた。

「――感謝する」

 傍若無人な神には振り回されてばかりで、ろくなことがなかったけれど。
 人の子を嫌うという彼の神が、加護を与えたのだ。それはどういう気まぐれだったのか知らないが、礼くらいは言うべきだろうと、そう思った。ルタンシーンは笑わない。鋭い眼光でシエラを見据え、なにも口にすることなく、ただ黙って見つめ返すだけだ。
 けれど、シエラは確かに、優しい波の音を聞いたのだ。


+ + +



「なぁなぁくろーどぉ、なんでまたナイショで船乗ってんのー? シャマこれきらいってゆったろー」
「ごめんごめん、でも我慢して。ほら静かに」
「水きらいー。ハラ減ったぁ」

 足に纏わりついてぺちぺちと叩く小さな手を捕まえて、クロードは体温の高い少年の体を膝の上に抱き上げた。途端に首に絡みついてくる両腕は、風呂上がりかと思うほどに温かい。
 人肌とは言い難い体温だとふと考えて、思わず笑った。それもそうだ。彼は人ではないのだから。

「なぁ、くろーどぉ」
「はいはい、分かった分かった。あとで好きなだけ食べさせてあげるから、もう少しだけ我慢して」

 甘えてくる姿は人間の子供のそれだが、褐色の肌から伝わってくるのは火の気そのものだ。あまりにも濃い火霊の気配に、水霊がざわめいているのを感じる。
 シャマがつんと唇を尖らせれば、力の弱い水霊は慌ててその場を離れたようだ。水は火を抑えるけれど、圧倒的な力の差を前にしては意味をなさない。
 船の揺れに合わせて、視界も揺れる。縛られた荷が床を滑り、勢いをつけてクロードの肩にぶつかってきた。紅茶やインク、酒の匂い。様々なにおいの充満したこの場所は、けっして快適とは言えない。暗い上に狭いし、揺れも大きい。それでもここにいるのには、訳があった。

「今度はどこ行くんだよぉ。アスラナに帰るんじゃねーのぉ?」
「ちょっとね。ベスティアに足を運んでみようかなぁと」
「ふーん。でもさぁ、なんでまた隠れて船乗るんだ? くろーど、船乗るカネ持ってねーの?」
「いやいや。ただほら、オレが乗ってることはナイショにしておかないといけないから。ね? 分かったら静かにしてなさい」
「分かんないから静かにしなーい」

 甘えた盛りの精霊様は、きゃっきゃと笑って黙ることを覚えない。――育て方を間違えた。カビの生えた天井を見上げて、クロードはそっと溜息を零した。
 そもそも精霊を――サラマンダーを育てるという思考そのものが間違いなのだと、いっそ誰かに糾弾されたい。そうすれば少しは彼を手放す気になれるのかもしれないが、どちらにせよ、今の様子を見ると彼の方が離れてくれそうにはなかった。
 シャマはクロードの放つ火気を大層気に入っている。彼の食事と言えば、火気を纏った上質な神気だ。人間でいうところの育ち盛りに属するシャマの腹を満たすには、クロードはうってつけなのだろう。
 だからといって子守は慣れない。精霊なのだから人の子とは勝手が違うだろうと思っていたのに、無尽蔵に湧いて出る気力といい、無邪気さといい、果ての見えない好奇心といい、人の子となんら変わりがなかった。

「それに、ベスティアってさ、なぁんか変な気がするからシャマあんまし好きじゃないんだよな」
「変な気?」
「魔女の気。シャマ、魔女きらい。きらいじゃないのもいるけど、でも、ベスティアにいる魔女はきらい」
「ベスティアに魔女、ねぇ。そんなことまで分かるの?」
「他のやつらが教えてくれる。みんな言ってるんだ、ベスティアの魔女はおっかないって。そりゃ魔女なんてどこにでもいるけど、“ベスティアの魔女”って言ったらあいつしかいねーもん」

 指先から炎を生み出してくるりと遊ばせたシャマは、鋭く尖った犬歯を覗かせて笑った。

「レティシア・フェル。――あんなの食ったら、きっとハラ壊す」

 暗い倉庫内をシャマの炎が照らす。水霊が散り、下級の火霊達が集まり始めた。熱が籠もる。じんわりと汗ばむほどなのに、この熱が体には心地いい。クロードの銀髪は炎に照らされ、赤々と燃えているように見えた。


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