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「貴様は神と共鳴しすぎる。ゆえ、その身を滅ぼしかねぬこともまた事実。して、受けるか、否か。答えよ、姫神よ」
「……なら、受ける」

 神の加護というくらいだから、受けておいた方がいいのだろう。それに、ルタンシーンは最初からそのつもりでシエラを呼び出したのだ。ここで断ればきっと機嫌を損ねてしまうに違いない。

「なればしかとその目を見開き、前を見よ。気を保ち、己を見失うな。――ゆくぞ」

 にぃと唇が妖しく弧を描いたと思ったら、一瞬にして神気が強さを増した。どこからともなく突風が吹き荒れ、シエラの髪を巻き上げる。神台に湛えられた聖水が揺れ、音を立てて零れていく。水の柱が噴き上がり、凄まじい風の音が全身を叩きつける。呼吸さえ難しい風の中、必死で顔を庇っていた腕の隙間から、シエラは信じられないものを見た。
 水浸しの床に伏した蓼の巫女の体。その傍らに、青い影が揺れている。
 ゆらゆらと波打つ蒼い髪に、金の瞳。肩と腕の一部に鎧のようなものを身に着け、三叉槍を左手に構えた屈強な男が、こちらを見下ろしている。
 目が合うなり、膝が砕けた。立っていられない。圧倒的な力の差に、心が、体が、早く立ち去りたいと悲鳴を上げている。
 男の腰から下は、蛇のようなそれだった。尻尾の先には鰭のようなものがあり、蛇ではなく竜なのだと知る。輝く鱗が眩しい。呼吸さえ奪う威圧感を持つ彼は、まさしくこのディルートの海を守る神――ルタンシーンそのものだった。

「どうした、姫神よ。気を保てと言うたであろう」

 低い、ざらついた声が耳朶を打つ。蓼の巫女の体を借りていたときとは大違いのそれに、当然だと思いつつも体が震えた。
 これが神か。桁違いの力を持つ、人ではないものの存在。
 返事を忘れたシエラを見て、ルタンシーンが不快そうに眉根を寄せて顎を掴んできた。加減を知らないその力に、顎が砕けそうになる。

「――姫神よ。この程度で震えていては、貴様はじきに死ぬ」

 濡れた髪から雫が滴り落ち、シエラの頬に触れた。途端に走った痛みに小さく呻く。苛烈な神気を宿した雫は、それだけで劇薬のような効果を持つ。
 ルタンシーンはシエラを無理やり立たせ、神台に押しやって腰かけさせてきた。ずるりと音がしたかと思えば、それは彼が移動した音だった。竜の半身が床をなぞる。
 神は自慢げに、この姿を取ることができるのは月が満ちたからだと言った。月の満ちる夜は神気を上手く制御でき、巫女の体を借りずとも人型を取ることが可能なのだと。しかし、だからといって、日頃顕現できぬわけではない。気ままに人型で姿を現せば、あまりの力の強さに自然が耐えられないからだと。
 ゆえに、ぎりぎりまで力を抑えることができる、満月の夜にこうして現れたのだ、と。
 こんなにも強大な力を見せつけておいて、これが本来持つ力のすべてではないと言ったのだ。街一つを一夜にして海の底に沈めた神なのだから、今更驚くことでもないのかもしれないが、それはあまりにも恐ろしい。
 ルタンシーンは三叉槍を水に変え、その場から消し去ると、シエラの肩を強く掴んできた。ごつごつとした大きな手に押され、あっけなく体が後ろに傾く。ばしゃりと水の跳ねる音を聞いた。背中が濡れ、髪が水面を泳ぐのを感じながら、シエラは半ば呆然としたまま、覆い被さってくるルタンシーンの顔を見上げた。

「我が加護を、その身に刻め」

 両手首を押さえ込まれ、鼻先で放たれたざらついた声に、そう告げられた。
 自分と似て非なる金色の瞳が、間近に迫る。その瞳の奥に、海を見た。青い海だ。美しい水の楽園の中を、鮮やかな魚が群れを成して泳ぎ、イルカが海面を跳ねている。ルタンシーンがゆっくり瞬くと、それは景色を変えた。一人の少年が、その瞳の奥にいた。海の中で、笑顔が揺れる。
 癖の強いその髪を持った少年は、誰かを彷彿とさせた。

「んっ……!」

 それが誰かと疑問に思う暇も与えず、押しつけられた唇から喉を焼く神気が滑り込んでくる。初めてルタンシーンとまみえたときもこうして口づけられたが、あのときは蓼の巫女の体を借りていた。比較にならない神気の強さに、全身に震えが走る。男に口づけられたという事実に、嫌悪感を覚えている余裕などない。
 解放を求めるために開いた唇は、声を出すことすら許されない。角度を変え、冷たく長い舌が喉の入り口をちろりとくすぐり、奥へ、奥へと神気を流し込んでいく。息苦しさに滲んだ涙は、そのまま滑り落ちようとはせず、宙に舞い上がって小さな珠となった。それが凍りつき、床に落ちて弾けて消える。
 心臓が破れそうだ。無理やり押し込まれる神気に、血が沸騰しそうな感覚を覚える。こんなもの、受け入れられるはずがない。人の体には過ぎたるものだ。
 長い口づけに抗おうと必死でもがくが、押さえ込まれた腕はびくともしなかった。必死に頭を動かすが、そのたびに追いかけられて仕置きとばかりに、より一層奥まで舌を捻じ込まれる。

「んん……っ、う、ぁ、はっ……!」
「――ふん。まあ、この程度か。姫神よ、脱げ」
「な、にをっ! この変態神が!」
「なんだと? 貴様、この海神を愚弄するか! 無礼な小娘が、神を人の子と同列に扱うか!」
「うるさいどけ! さっさと離せ!」

 憤慨するルタンシーンから強引に距離を置き、シエラは思いつくままに罵倒した。焦りと怒りに支配された頭は、相手が誰かをすっかり失念しているようだった。言葉が尽き、荒い呼吸を落ち着けながら、シエラはふと気づく。
 指先の震えが収まっている。酸素不足による震えはまだ残っているが、それとは明らかに異なる震えが確かにあったはずなのに。肌の上を走るあの独特の痺れのような感覚も、もうない。あれほどまでに感じていた苛烈な神気が、この身に馴染んでいるような気さえした。
 その奇妙な感覚に驚いていたシエラの前を、銀の光が一閃した。驚く間もなく布の裂ける音がして、一瞬にして神父服の胸元から肌が露わになる。鎖骨から胸元にかけて切り裂いた三叉槍を手に、ルタンシーンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

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