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「え……」
「政治手腕に及第点は差し上げられません。あの決断が、いついかなるときも正解だとは言えません。しかし、よく頑張りました。……もういいですよ。今だけは。ホーリーの次代を担う第三王子ではなく、末っ子のぽえぽえ王子に戻りなさい」
「はは、なにそれ、意味わかんないよ、レンツォ」

 俯いて笑うシルディの髪を掴んで強引に上を向かせ、額を合わせて瞳を覗き込む。
 鼻先が触れ合う距離で、ただ静かに夜色の瞳を見つめた。
 この王子は、人を甘やかすのが得意だ。クレメンティアなど放っておいても、他の誰かが泣かせてくれるだろうに。彼女がなにを頑張ったというのか。ただ膝を抱えて泣いているだけだった。わざわざシルディが慰めてやる必要もない。そうレンツォは思うのだけれど、彼には必要な言葉だったのだろう。
 だからこそ――。

「これからまたしばらく、甘やかしてやれません。素直になった方が身のためかと存じますが」
「っ……」
「あなたが王子としてしっかり前を向いていたからこそ、このディルートを神の後継者に任せることができた。私は私の仕事に集中できた。それゆえに、ディルートは持ち直した。泣きもせず、よくここまで頑張りましたね」

 こんなことは滅多にない。
 髪を強く掴んだ指から力を抜いて、後ろ頭に滑らせてそっと撫でた。

「明日からまた頑張りなさい。……だから今は、特別ですよ」

 潤んだ瞳が視線を逸らす。――いつの間に、大人になったのだろう。喜びとも悲しみともつかない感情を抱きながら、ふわふわとした頭を肩に押し付けた。そうまでしてやって、やっと嗚咽が零れていく。赤子をあやすように、頭を、背を、優しく叩く。
 兄を亡くした。臣下を失くした。美しい街並みが、親しい誰かが、知らぬ誰かが傷つき、消えた。つらかったろう。優しいこの王子の胸には、さぞ痛みが走ったろう。それでも、彼は泣かずにここまで前を見続けた。自分の足で、しっかりと立ち続けた。
 泣き濡れる声を間近で聞きながら、そのぬくもりに安堵する。どうかずっと、この涙を忘れないでいてほしい。そう思った。
 しばらくして嗚咽が止んできた頃、レンツォはそっとシルディをその場に立たせた。
 目も鼻の頭も真っ赤にさせたシルディが、不思議そうにこちらを見る。その足元にためらいなく跪き、レンツォは主を見据えて胸に手を当てた。呼吸する自然さで、主君に対する最敬礼を。

「――誓いましょう。あなたが、このホーリーのために前を向く限り。このレンツォ・ウィズ、必ずあなたのお傍に控え、支えましょう。あなたの望む未来が、私の愛するホーリーである限り。……どんな道であろうと、共に歩みましょう。あなたの隣に、どこぞのまな板娘が立っていようとも」
「レ、レンツォ!」
「そのもう傍らには私が控えていることを、どうかお忘れなく。このホーリーと、そしてあなたと。――永久に、共に。それが私の願いです」

 とわに、ともに。
 ずうっと前にも、そんな約束を交わした気がする。

 照れくさそうに笑ったシルディが、そんなことを呟いた。


+ + +
 


 月が満ちた。
 ルタンシーン神殿の奥、至聖所まで続く道を、シエラは一人歩いていた。歩くたびに神気が濃くなり、肌を焼く。エルクディア達と聖堂で別れた際、ゴルドーに「くれぐれもお怒りを頂戴しませぬよう」と釘を刺された。シエラとて、あの神をわざわざ怒らせるような真似はしたくない。
 それにしても、なぜわざわざ二週間も待たされたのだろう。道中仰ぎ見た月は綺麗な円を描いており、あまりの美しさにしばらく見惚れるほどだった。明るい月光に照らされた海は、もうすっかり静けさを取り戻していた。
 夜の海は、まるでシルディの瞳のようだ。静かで、穏やかで、けれどきらきらと輝いている。
 至聖所の扉を開ける。中に足を踏み入れれば、そこにはもうすでに神の降りた蓼の巫女が神台に腰を据えて待っていた。青灰色の瞳が、シエラを捉えて僅かに金を滲ませる。

「――来たか、姫神よ」
「お前が呼びつけたんだろう。月の満ちる夜に来いと」
「ああそうだ。俺が呼んだのだから、出向いて当然であろう。よもや、不平を漏らす気ではあるまいな」

 傍若無人な神は笑い、手遊びに水の珠を作って部屋のあちこちに浮かべた。燭台の炎を受け、大小さまざまな大きさの珠がきらりと光る。
 シエラとしては早く本題に入ってほしかったのだが、ルタンシーンはひとしきり蛇神に関する愚痴を零した。神器はゴルドー達神官が修復したようだが、それでも怒りは収まりきらぬらしい。

「まったく、ほんに忌々しい蛇よ。あれは異世(ことよ)の神ゆえ、元より我が前になど現れるべくもないと踏んでおったが……いや、なれど、ああ実に腹立たしい!」
「異世の神……?」

 延々と繰り返される愚痴には口を挟まないでいようと思っていたのに、聞きなれない単語に思わずそう呟いていた。爬虫類のように縦に割けた瞳が、こちらを向く。「ああそうとも」ルタンシーンは舌打ち混じりに頷き、立てた片膝に肘をついてシエラを見据えた。

「あれは異なる世に巣食う神だ。知らぬか、姫神よ。この世は一つにあらず。すべての世に通ずる門扉ありて、その門扉守る者あり。――しかし世を好んで渡る者など、神だとてそうはおらぬがな」
「門扉守る者? ちょっと待て、それはつまり、あの蛇神は違う世界の――」
「かような話はどうでもよい! 忌々しい蛇の話はもう二度とするな!」

 怒りに満ちた声にぴしゃりと打たれ、理不尽さに納得はいかないものの、シエラは大人しく口を噤んだ。不満など零したところでややこしくなるだけだ。それくらいの学習能力は備わっている。

「今宵、貴様を呼びつけたのは他でもない。このルタンシーンの加護をくれてやる」
「加護?」
「姫神よ。貴様の力はあまりにも脆弱で、危うい。魔の王どころか、小物にすら敵わぬ。創世神の望む世がどうなろうと構わぬが、我が神域まで穢れが及ぶは仮借ない。ゆえ、この海神の力を、貴様に分け与えよう」
「それは……、ありがたい、が……」

 神の器に、神の加護。
 まったくもって、シエラの理解の範疇を越えている。


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