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「いたっ! なにするの!」
「なんとなく。まあでも、あなたがそうご機嫌斜めなのは、私のせいだけではないでしょう。どうしたんですか?」
「九割レンツォのせいだけどね! ……でも、その、なんていうか……。もうすぐみんな帰っちゃうんだなーって思うと、少し寂しくって。いっぱい案内したいところがあったのに、結局できなかったし」
「あなたが会えなくなって寂しいのは、あのまな板小娘だけでしょうに」
「レンツォってば!」

 怒っているのか照れているのか、それとも両方なのか。シルディは丸い目を精一杯吊り上げてレンツォを睨む。
 シルディの執務机の端に、薔薇の花が揺れていた。すっかり開ききった白薔薇と、綻びかけた赤薔薇の蕾だ。時は止まらない。どんなに美しいまま留めておきたくても、それは叶わない。
 咲き誇った花はいつか枯れる。固い蕾は、いつか柔らかく綻び、そして花開く。

「いいですよ、別に」
「なにが?」

 ぷうっと頬を膨らませたまま、シルディはぶっきらぼうにそう訊ねた。
 小さくて、柔らかくて、頼りない一番下の王子様。いつも自分の後ろをついて回って、舌足らずな口調で自分を呼んで。それがいつの間にか、こんなにも大きくなった。
 いつまでも子供ではない。そんなことは、傍で見てきた自分が一番よく知っている。

「行きたければついていったらどうですか? アスラナ留学も悪くないと思いますけどね」
「え?」

 沈黙から滲む、困惑と期待。
 顔を見ずとも分かる。黙々と作業を続けながら、レンツォはシルディの言葉を待った。もっと時間がかかるかと思っていたのに、意外にも沈黙はすぐに破られた。

「えっと。留学は楽しそうだけど、でも、それはできないよ。だって僕は、今、ここにいなきゃ。留学なんて、やろうと思えばいつだってできるでしょう? だから、今じゃない。今はこのホーリーを守らなきゃ。というより、守りたい。父様やレンツォ達と一緒にね。もちろん、今だけじゃなくて、これからもずっとだけど。――変なレンツォ。なんで急にそんなこと言い出したの?」

 そこに強がりが存在していたのか、不覚にもレンツォには汲み取ることができなかった。ころころと愛らしく笑うシルディはまだまだ子供の柔らかさから脱しきれていないのに、それでも妙な安心感がある。
 口を開けば甘ったるい理想にまみれた綺麗事ばかりを吐き出すくせに、どうにかしてそれを叶えてやりたいと思わせるだけのなにかがある。
 だから、選んだ。
 この王子ならば、きっと――……。

「あれ? ルチア、そんなところでなにやってるの? 入ってきなよ」

 扉の影からこちらを覗き見ていたルチアが、おずおずとやってきてレンツォの膝の上に座った。なにかを言いたそうにしているが、なかなかその言葉が出てこない。ルチアにしては珍しい。二人して顔を見合わせていると、膝の上の少女はやっと意を決したように口を開いた。

「あの、あのねっ、ヒナナに聞いたの! にーさま、ルチアのこと探してたんだって! それで、それでねっ」

 話が前後するルチアの言葉を繋ぎ合わせると、ヒナナという少女がファウストと接触していたらしい。ファウストはどこかへ行方をくらませたとのことだ。その報告はすでにクレメンティアから聞いていたが、ルチアが話したいことはまた別にあるようだった。
 ファウストがどこへ向かったか――、それは、おおよそ予想がつく。
 だからこそ、レンツォは静かにルチアの言葉を待った。

「あのね、だから、ルチアね――……」

 そこから続けられた想像通りの言葉に、溜息しか出てこない。シルディが隣で複雑そうな顔をしている。膝の上から必死で見上げてくるルチアの頭を撫で、レンツォは小さく笑った。

「本当にそれでいいんですか?」
「うん。ルチアが決めたの。そうしたいって」

 「でも……」シルディがなにかを言いかけたが、彼はすぐに口を噤んだ。

「でしたらそうなさい。あなたの人生です。あなたの思うように生きなさい」
「――うんっ!」

 嬉しそうに破顔するルチアの胸元に、見慣れない琥珀の首飾りが揺れていた。ここ最近どこかへ出かけていることが多かったから、市場で買ってきたのだろうか。中には昆虫の羽のようなものが閉じ込められているようで、大人びた造形のわりには、不思議とルチアによく似合っていた。
 まだまだ子供だというのに、女の子はどうしてこうも大人になるのが早いのだろう。吹き出物一つない額に口づけながら、そんなことを思う。
 跳ねるように膝の上から飛び降りたルチアは、半透明のショールをなびかせて部屋を出ていった。

「ルチアね、レンツォもシルディも、だーいすき!」

 まるで妖精だ。
 ふわりと飛んできて、あっという間に去っていく。
 閉まった扉を眺めていたレンツォに、シルディが「本当によかったの?」と聞いてきた。どこか気遣うような物言いに、苦笑が漏れる。

「あの子が選んだ道です。良いも悪いもありませんよ」
「そっか。……でもルチア、大丈夫かなぁ」
「人の心配をしている場合ですか?」
「え? ――ちょっと、もう、なに? 痛いよレンツォ、髪の毛抜けるってば!」

 立ち上がってやや乱暴にシルディの頭を掻き回せば、案の定、彼は唇を尖らせてレンツォをねめつけてきた。子供の頃から、この表情は変わらない。より一層強く撫でると、柔らかな金茶の髪が数本指に絡みつく感触がした。

「痛いっ! 抜けちゃう、ハゲるよ!」
「次はあなたの番では?」
「え? なにが? たっ、 確かに、父様は最近抜け毛が目立ってきてるけど」
「……あなたって、たまに残酷ですよね。私が言いたいのはそういうことではありませんよ。こう言えばお分かりですか? ――『よく頑張ったね』」

 シルディの抵抗が止まり、大きな瞳がさらに大きく見開かれた。どこぞのまな板小娘に、その口から吐き出した台詞だ。覚えがないわけがない。


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