9 [ 417/682 ]

+ + +



 この町は水気が濃い。清らかな水の気が、町のあちらこちらから流れてくる。
 しんと静まり返った夜にも、水はけっして眠らない。水路を静かに流れていく穏やかな水音、橋の下で揺れる小舟が壁にぶつかる音。そよぐ風に木々が揺れる音。そして絶え間なく聞こえる、波の音。
 ヒナナはそんな町を小走りで駆け抜けながら、見知った気配を感じ取って、安堵と呆れの溜息を吐いた。なだらかな弧を描いた白い石造りの橋の中央から下を覗き込むと、舗装された水路脇の歩道に長身の影が見えた。その隣には小さな人影もある。薄ぼんやりと光るそれはまさしく、ずっと探し求めていたものだった。
 橋の欄干に手をかけると、ヒナナは躊躇いなく地を蹴って橋から飛び降りた。チリン。鈴が鳴り、風が吹き上げて落下速度を和らげる。相手もこちらの気配に気がついていたのか、驚く様子もなく、落ちてきたヒナナの体を待ち受けていたかのように受け止めてくれた。大きな腕に受け止められ、危うげなくその場に降り立つと、小さな影の方がびくりと体を震わせる。

「こちらにおられたのですか。もう、探しましたよ」
「よぉ、遅かったな」

 長身の男がへらりと笑う。

「遅かったのはてて様の方ではありませんか。どこへ寄り道なさっておられたのですか? それから蛇神様、こちらの海神様が大層お怒りになられておいでです。一言お詫びを、」
「せぬ」
「蛇神様」

 つんと顔を背けた拍子に、小さい方――蛇神の纏っていた外套の頭巾が零れ落ちた。目を瞠るほど蒼白く美しい髪が零れ、透明感のある肌には鱗のような文様が浮かんで見える。金の瞳は、神の後継者のものとよく似ていた。
 見た目こそヒナナとそう変わらぬ年頃に見えるが、ヒナナがそうであるように、蛇神ももちろん相応の年齢ではない。――神に「年齢」などという概念があるのかさえ疑問だが。
 この地の海神の怒りを買った張本人だというのに、蛇神は拗ねたように唇を尖らせてこちらを見ようともしなかった。元より気難しさで有名な蛇神だ。矜持は天を貫く山よりも遥かに高いと言われているので、異国の神になど頭を下げるわけがなかった。

「てて様、聞きましたよ。港町で金銭を払わずにお食事をいただいたのだとか」
「そうだったか?」
「俗にいう“食い逃げ”ですよ、てて様。なんと恥ずかしい。それに、海神様の神器はどうなさるのですか。壊したからには直さねばなりませんでしょう」
「あー……、めんどくせぇから逃げちまおうぜ!」
「てて様!」

 ぴしゃりと叱りつけると同時に外套を勢いよく引っ張ると、そこから一つに纏められた深い青の長髪が零れ、欠けた月の光に照らされて輝いた。左目に縦に刻まれた傷跡はその瞳の色を隠してしまっているけれど、残された瞳は鮮やかに色を残したままだ。
 肩を怒らせるヒナナを「まあまあ」と宥めすかし、男は蛇神の頭を撫でてからからと笑った。

「後継も見たし、蛇神も見つかったし、とりあえず帰ろうぜ。あんまし長居すると兄貴がうるせぇだろうしな」
「てて様! てて様は神たる自覚が足りなさすぎると、ヒナナは常から思うのです。もう少し威厳や、落ち着きというものを、」
「説教はあとにしてくれや、な?」
「ああもう……。よいのですか、異世でこのように目立って」
「門番にゃ話はつけてある。大丈夫だろ。そら、今だってあそこにああして――、な? 開いただろ」

 男の指さす方――水路の上に、大きな白い両開きの扉が突如として現れ、浮かんでいた。流線型の美しい柱に、植物が象られた意匠の凝らされた装飾。どこからともなく花びらが舞い降りてきたかと思えば、シャン、シャン、と重なり合った鈴が鳴り響く音が、波のように寄せては引いていく。
 分厚い石造りの扉は見た目に反して音もなく開き、その向こうに星の瞬く闇を潜ませていた。リン、シャン、シャン。明るく澄んだ鈴の音は、ヒナナが持つ鈴よりも多くの音色で謳う。ときに弱く、ときに強く。それがとても耳に心地いい。

「……てて様、むやみに門番殿をお使いになるのは、いかがなものかと」
「使うっつうと聞こえわりぃな。“頼る”にしとこうぜ」
「無駄口を叩くな、はよう戻るぞ」

 機嫌を損ねた蛇神が、ふわりと地面から足先を浮かせて扉の中へ吸い込まれるように消えていった。そもそもの始まりは蛇神が社(やしろ)を放って逃げ出したせいだというのに、まったくもって神とは我儘だ。
 シャン、リィン。鈴の音と共に、別れを惜しむように花びらの雨が降り注ぐ。ヒナナの髪を飾り、あるいは男の頬に口づけ、残りの多くは水路の水面を淡い色で染め上げていった。

「今度来るときゃ、あの嬢ちゃんもこっちの仲間入りしてっかな」
「てて様のようにならぬことを、切にお祈り申し上げます」
「ははっ、違いねぇ」

 神はいつだって自由奔放で、ときに理不尽だ。
 しかし、そうあるべきだともヒナナは思う。

 ――自由のない、役割に囚われた神など、それはそれはおつらいことでしょうに。

 二人の影が扉に吸い込まれて消えたのち、扉はゆっくりと口を閉ざし、大量の花びらとなって掻き消えた。
 リィン。たった一つ、鈴の音を残して。


+ + +



「王子、まだ怒っているんですか?」
「怒ってない」
「怒っているじゃないですか。もう三日前のことなのに、まだ怒っているんですか。キスを寸止めされたのがそんなに嫌でしたか。クレメンティア様にキスしようとしていたのに、もう少しというところでできなかったことがそんなに、」
「レンツォ!!」

 顔を真っ赤にして怒るシルディを前に、レンツォはやれやれと首を竦めた。良くも悪くもお年頃の青少年は、先日の一件からレンツォに対して当たりがきつい。いつも穏やかで笑顔を絶やさないと評判の王子は、今や唇を尖らせてむくれきっている。それでも仕事の手は止めないので、その辺りは評価してやってもいいだろう。
 いささか可哀想なことをした気がしなくもないが、あの二人はどうせ婚約者だ。一度や二度邪魔をしたところで、ゆくゆくはキス以上のことだってする仲になる。ならばさして問題もないだろうと開き直り、レンツォは意味もなく、シルディの頭を丸めた書類で叩いた。


[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -