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「ねえ、クレメンティア。……考えすぎないでいいからね」
「え? なんの話ですか?」
「んー、いろんなこと。考えるなっていうのは、きっと無理だと思うから。シエラちゃんのこととか、アスラナのこととか、……そっ、その、ぼ、僕らのこと、とかっ」

 目元を赤らめながらそんな風に言われて、思わずライナの頬に熱が生まれる。「僕らのこと」だなんて、そんな。あれはあくまで形式上のもので、上の二人に比べたらシルディが一番マシだっただけの話だ。だから、――だから。
 それなのに、どうしてこんなにも顔が熱いのだろう。
 ホーリーの次期王とエルガートの公爵令嬢は、婚約関係にある。それは生まれたときから定められていたから、当たり前のように考えていたけれど、改めて言葉にされるとどうにも落ち着かない。
 思うような言葉が出てこず口籠っていたライナに、耳まで赤くさせたシルディがぎこちなく微笑んだ。

「あの、えっと。大丈夫だよ。僕はいつだって、クレメンティアの味方だから。だいじょうぶ。困ったときは助けに行くから。すぐには無理かもしれないけど、でも、必ず。約束したでしょう? 君は僕が守るって」
「なにを、えらそうに……」

 顔が熱い。鼓動が速い。もっと髪を伸ばしておけばよかった。慌てて俯いたのに、これではすべてを隠しきれてはいないだろう。
 控えめに髪に触れる手は探るような手つきで、これまたどこかぎこちない。エルクディアやユーリなら、そうするのが自然であるかのように触れて離れていくというのに、彼の手は壊れ物に触るかのように恐る恐る触れてくる。毛先に神経などあるはずがないのに、触れられた瞬間、肩が跳ねた。
 控えめな指先が生え際まで差し込まれ、ゆっくりと髪が掻き上げられる。目を開けることができない。頭皮に痺れが走る。震えた吐息を、彼はどう思ったのだろう。もう片方の手が、落ちた花が触れる程度の優しい力で、ライナの二の腕を掴んできた。
こんなにも優しい拘束は、拘束とも言えない。今すぐにでも逃げ出してしまえるだろう。
 それなのに、身じろぎ一つできない。

「君はこれから、たくさん傷つくと思う。たくさん泣くと思う。怖いよね、つらいよね。でもね、忘れないで」

 こつりと重ね合わされた額から、じんわりとお互いの体温が行き来する。
 潮騒が遠い。穏やかな、優しい声だけが体を包む。目を閉じていても、不思議と分かった。今、彼は笑っていない。きっと、ひどく真面目な顔をして、こちらを見ている。
 すべてを癒す風が吹く。

「――僕がいるよ」

 だから、大丈夫。
 なんの根拠もないくせに、シルディはそればかり繰り返す。
 根拠のない話は好きじゃない。けれど心は、その言葉を受けて安堵と喜びに蕾を綻ばせていく。触れ合ったところから、優しく溶かされていくような気がした。

「話したんでしょう、シエラちゃんのこと。よく頑張ったね」
「え?」
「つらかったでしょう、一人で抱えてるの。二人の傍にいて、いつも通り振る舞うの、しんどかったでしょう。よく頑張ったね」

 ああもう、どうして。
 じわじわと涙の滲んでいく瞳が嫌だ。どこまでも優しい夜の海の色をした瞳に見つめられて、胸の奥からなにかが溢れてしまいそうになる。

「よく話せたね。大切な友達にあんなこと告げるの、怖かったでしょう。エルクくんの気持ちに気がついてたなら、なおさら。……これからも、きっとしんどいよね」

 優しく重ねられた額が、ゆっくりと体温を伝えてきた。閉じた瞼の隙間から、堪えきれない涙が零れ落ちていく。
 大丈夫だと、シルディは言う。貴方になにが分かるんですか。そう言って跳ねのけるのは簡単だけれど、今はこの優しさが心地いい。

「泣いていいよ。……大丈夫。ここには僕しかいないから」

 頬に触れた手のひらが熱い。一度離れた気配を感じてうっすらと瞼を押し上げれば、照れくさそうに細められた夜色の眼差しに囚われる。その表情に思わず小さく笑えば、吐息が互いを掠めていった。
 不安は山ほどある。どれも簡単には拭いきれなくて、彼の言うように、自分は耐えきれずに何度も泣くのだろう。胸が裂かれる痛みに叫ぶのだろう。それでも、今この瞬間は、そんな不安すら包み込むぬくもりに満たされていた。
 海はすべての始まりで、すべての母なのだと、誰かが言っていた。海を愛する彼は、その優しさも手に入れているのだろうか。

「クレメンティア……」

 掻き消されてしまいそうなほど小さな声で名を呼ばれ、血がざわつくのを自覚した。閉じた瞼の向こうで影が揺れる。再び近づく体温に、胸の奥が心地よく引き絞られた。

「王子〜、こちらの書類にサインをいただきたいんですが」
「ッ!?」
「うへぁっ! レ、レンツォ!? ちょ、い、いつ、え、いったい、いいいいつ、かっらっ!?」
「『あ、ルチアだ』くらいからですね」

 つまりほとんど最初からだ。
 隣の部屋のバルコニーからつまらなさそうにこちらを眺めるレンツォは、手元の書類で顔を扇いでわざとらしく「今日は暑いですね」などとのたまった。いくら年中温暖な気候のディルートとはいえ、冬のこの時期に暑さを感じるわけがない。
 ライナと目が合うなりにやりと口元を歪め、レンツォは嫌味なまでににっこりと笑った。

「申し訳ありません、クレメンティア様。もしかしてもしかせずとも、私はお邪魔でしたか?」
「いいえ! ぜんっぜん! まったく! 大丈夫です! なんの問題もありませんっ」
「ああよかった、安心しました。ですがクレメンティア様、そんなにも強く相手を突き飛ばすのはいかがなものかと。うちの王子が今にも転落しそうです」

 途中で蛙の潰れるような声が聞こえたと思ったが、シルディだったのか。手摺りに必死でしがみつく情けない姿には、先ほどの不思議な熱は感じない。
 羞恥心でどうにかなってしまいそうだというのに、レンツォは意地悪く笑うばかりで退路を与えてくれやしない。
 ――見られていたのだろうか。見られていたのだろう。見られていたに違いない。

「シエラのところへ行ってきます!」

 逃げたと思われてもいい。笑いたければ笑え。叫ぶように言い置いて、ライナは逃げるようにバルコニーを飛び出して部屋から廊下を駆け抜けた。
 濡れた頬には気づかれただろうか。ああもう、最悪だ。
 薔薇の色とは正反対の、あの美しい蒼に包まれたい。きっとあの子は訳が分からないと首を傾げるだろうけれど、あの華奢な体に思い切り抱き着きたかった。
 「もぉおお、レンツォってば!! なんで邪魔するの!?」きっちりと閉められた扉の向こうからそんな怒鳴り声が聞こえてきたから、余計に。



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