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 二週間。もう少し早く帰国したかったのだが、ここで無視すればどれほど機嫌を損ねるか分からない。船の手配などの事務作業も考えると、ちょうどいい時間なのかもしれないが――。
 ルタンシーン神殿を出て見上げたディルートの夜空は、金や銀の粉をばら撒いて作ったかのような美しさでシエラ達を迎えた。夜になり、少し冷えた風が頬を撫でる。欠けた月が照らす海は穏やかで、一定の間隔で――けれど毎度音を変えて――波が謳っている。

 どこかに人魚もいるのだろうか。
 穢れに嘆くことなく、清らかな海の中で、美しい歌声を響かせているのだろうか。


+ + +



 玉座の間というのは、どうにも落ち着かない。
 そう零した古くからの友人のために、ユーリは彼をわざわざ寝室へと案内してやった。本来ならば、昼夜問わず、むさ苦しいだけの男など連れ込みたくもないのだが、話が話なだけに仕方がない。
 寝室とはいえ、王の自室なのだからかなりの広さがある。美しい薄青の蔦模様が這う壁は言うまでもなく最高級品であるし、天井から吊らされたシャンデリアは磨き上げられた水晶の輝きを放っている。ドアノブの金だって、色だけの意味ではなく言葉通りの金だ。ユーリがあと三人寝ても余裕のある寝台は、心地よい微睡をもたらす最上のものだ。汚れ一つない敷布が眩しく、その敷布一枚で城下の平民が一月は食べて暮らせるだろう。
 ――別に贅沢がしたいわけではない。金銀財宝に囲まれて暮らすことに、なんの意味があるというのだろう。
 けれど、自分が使わなければ困る者もいる。ユーリがこれらの調度品を不要と言えば、王家御用達の職人達がたちまち干上がってしまう。人はそれを詭弁と言うのだろうか。贅沢を仕方がなくやっている、だなんて、どう繕っても嫌味としかとらえられまい。
 贅を尽くした華やかな生活をしていれば、人々はそれが王の姿だと言って、心の奥底に羨望と嘲りを隠して笑みを浮かべる。堂々としたお姿が素敵です。さすがは陛下、金のお飾りがよくお似合いです。――「彼らの王」には、常に優雅に微笑むことが求められている。
 大きな窓から差し込む陽光に、不揃いの銀髪が照らされた。丁寧に梳れば梳るほど美しく輝きを増す銀髪は、それでいて切り口が乱雑だ。当然だった。理髪師の手に任せず、自分の手で、それも短剣で無造作に切り裂いているのだから。

「なぁ、へーかよ。このシーツ、毎日変えてるわりにゃあ、おねーちゃんの匂いこびりついてんのな」

 ぼんやりとした意識を引き戻したのは、王の寝台に許可なく腰を下ろした男の一声だった。
 錆色の髪と目、それからだらしのない無精ひげ。王都の大学にでも務めていそうな学者風の出で立ちのくせに、がっしりとしていて体格はいい。いかにも胡散臭そうな三十代後半のこの男は、見た目に似合わず洒落た名を持っていた。

「リシャール、汚れた服で寝転がらないでくれないかい? それより、話があるのなら早くしておくれ。私も暇ではないのだから」
「へーへー。んあ〜、なんっだこのベッド。とろっとろで逆に落ち着かねぇな」
「リシャール」
「わぁったわぁった、怒んなって〜」
「……君は本当に、フェリクスとよく似ているね。オリヴィエよりも、よほど兄弟に近い」

 今朝まで金髪の美女が頭を預けていた枕をすんすんと嗅ぎながら、リシャールは視線だけをこちらに寄越して笑った。「そりゃあ、まあ」にしし。そんな笑い方で枕を抱き、羽根の詰まったそれをユーリめがけて投げてくる。当たったところで痛くはないが、仮にも国王にこの態度はいかがなものか。他国ならば許されないだろう。
 片手で枕を叩き落とし、ユーリは人知れず息を吐いた。

「でも、フェリクスよか俺のがオトコマエだろ?」
「どちらも変わらないよ」
「あっ、ちっと自分の方が整った顔してるからって! くっそー、お前なんてな、十年もすれば俺と同じ顔になんだよ!」
「それは困ったね。とても嘆かわしい」
「泣くぞ」
「気味が悪いだけだからやめておくれ」

 こんなときだというのに、自然と笑みが零れた。
 ルイド島に派遣していたこの男が戻ってきたということは、「そういうこと」だ。もう結果は見えているのに、彼の口からはっきりと聞くまでは、それを認めたくないと思っている自分がいる。――情けない。着慣れているはずの法衣が、やけにずっしりと重く感じた。
 反動をつけて起き上がったリシャールは、寝台脇に置いてあった水差しに直接口をつけて喉を潤している。自由奔放なところは昔から変わっていない。それが時折、どうしようもなく羨ましくなるのだけれど。

「ぷはっ……、例の姫さん、ついに来ちまったぞ。どーすんだ?」
「……どうしようか」

 分かっていたことなのに、つい肩が跳ねる。窓を押し開けて見上げた青空はどこまでも高く、冬のこの時期にしては珍しく澄み切っていた。身震いしたリシャールが大きくくしゃみをしたので、彼を部屋から追い出したあとで敷布を取り換えることを、固く決意する。
 つきりと痛んだ胸を隠すように、ユーリは胸に提げたロザリオをきつく握り締めた。鮮やかな空の中からなにかを探すように、目を凝らす。

「おいおい、この時間に星は見えねぇぞー。今の時期だと、西の空にゃナーダの星がきれーに見えっけども。ま、近頃は月が近くなってきてっから、それも見難くなっちゃいるが」
「どうしたんだい、まるで天文学者みたいなことを言うね」
「おいおい、へーか。俺は天文学者っすよーん」
「そうだったかな。学者にはとても思えないけれど」

 わざとらしく胸元から星座盤を取り出して見せつけてくるリシャールに、相変わらずだとユーリは笑った。幼い頃、小さなユーリの手を引いて、満面の笑みで夜空を指さした兄のような姿を思い出す。「見えるか、ユーリ。あれが赤の十字座だ」背の高いリシャールに肩車をされると、ぐっと空が近くなって、星に手が届きそうな気がしたものだ。いつの間にか、背を追い抜いてしまったけれど。
 リシャールは、生まれて間もない頃のユーリを知っている。ユーリが聖職者になるべく王都に移り住んだ頃、彼もまた、大学に通うために王都へとやってきた。国王とはほど遠かった頃の自分を知っている数少ない友人に、自然と肩の力が抜けていく。
 それでも、この法衣を着ている限りは自分は王だ。そうでなければならない。このロザリオが、胸の前で揺れる限り。


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