4 [ 412/682 ]
「――ならば、教えていただきたい。言葉一つで、貴神のお心が変わるのですか。私が言を改めれば、そのお考えを、改めていただけるのですか。貴神は、この海を守護なさる海神ではないのですか。みすみす穢れを許しただけでは飽き足らず、人の子の力を借りねば清浄を取り戻せぬ、それが守護神なのですか。穢れを祓い、この海には平穏が戻った。貴神のお力を邪魔するものは、すでにないと存じます。その崇高なるお力では、神器一つ修復することはできないのでしょうか」
慣れない言葉に、舌がもつれそうになる。言いたいことはすべて言ってやるつもりだった。どんなに肩を震わせていようと、この神の理不尽さは変わらない。さらなる怒りを買ってディルートを危険に晒すことなど、今のシエラの頭からはすっかり抜け落ちてしまっていた。
そもそも、ルタンシーンがあっさり呪詛に負けたのが問題ではないのか。容易く神器を傷つけさせるような神が、どうしてこんなにも偉そうにしている。相手が神だからと仕舞い込んでいた子供のような不満が、形だけは丁寧な言葉に乗って口から滑り出る。
「貴様……、よくも俺にかような口を……」
「激情に任せて力を振るうは、神も人の子も変わらぬように思えます」
「ふざけるな、黙れッ!! 今すぐにこの街を沈めてくれる! 神官、終わりの鐘を鳴らせ!」
「ルタンシーン様、なっ、なにとぞ、なにとぞお許しを!」
「ならん! かような侮辱は断じて許せん!」
憤怒のままシエラを突き飛ばしたルタンシーンは、神台から飛び降りるなりゴルドーを怒鳴りつけた。その瞳が青灰色から黄金に色を変えているのを見るなり、シエラの胸が大きく跳ねた。金の瞳は、神の色。蓼の巫女の桃色の髪が、ぼんやりと蒼く陰りを帯びているようにも見える。中に降ろしたルタンシーンの力が上回っているのだろう。人の身にはかなりの負担を強いているはずだ。
ライナが強くロザリオを握っているのが見えた。せっかく温かい湯に浸かってきたのに、雪山にでもいるかのように顔が青ざめてしまっている。
ルタンシーンを激怒させたのは自分だというのに、その実感がまるでない。石床に額を擦りつけるゴルドーが、どこか遠くの景色のように思えた。
「――はき違えるな」
「シエラ……?」
今の声は、エルクディアだろうか。
遠い。声が。音が。すべてが、分厚い膜の向こうで響いている。
キン、と、澄んだ氷の音がする。それだけがやけに近く聞こえた。手の先が冷たい。視界が蒼白く染まっていく。きらきらと、白い結晶が舞い落ちる。
美しい蒼の世界に、誘おう。
朽ちることなく、すべてが美しく眠る、その世界へ。
勝手は許さない。許されるはずがない。なによりも愛しい存在を、奪うだなんて。
あれだけ響いていた足音が、不思議と鳴らなかった。ゆっくりとルタンシーンへと近づいたシエラの手が、その頬に触れる。蓼の巫女はシエラよりも背が低い。上から覗き込むように見下ろせば、驚きに満ちた金の双眸と目が合った。
触れた手のひらから、記憶が流れ込んでくる。
海。人。少年。鱗。人魚。王。忌み子。反乱。檻。涙。絶望。怒り。――約束。
――じゃあぼくらは、これでずぅっといっしょだね。
そう言って笑った少年が、この海のどこかで眠っている。誓約ではなく、約束を交わした。それはけっして、望んだ形で果たされることはなかったけれど。
痛みの記憶は、とても根深い。
「やめろ」どこか怯えたような声が聞こえた。ルタンシーンの声だ。パキン。彼の後ろに、大きな氷の塊が壁になっているのが見えた。気がつけば、氷の世界に閉じ込められていた。四方を薄青の氷が固めている。氷の向こうに人影が見えたが、あれはいったい誰だろう。
分からぬまま、シエラはルタンシーンの額に唇を寄せた。
「やめろ。――やめろ!」
「なぜ?」
「貴様がまこと姫神であるのは分かった。これ以上、“俺”を覗くな……!」
あれほど強い力を持っていたルタンシーンが、今や赤子程度の抵抗しかしてこない。シエラを押し返そうとする腕には力が入っておらず、背けた顔はほんの少し震えている。その足元は、氷によって地面に縫い止められていた。
濡れた体には、この冷気は相当こたえるらしい。睫毛に氷の華を乗せたルタンシーンは、白い吐息を零しながら何者かの名を呟いた。音にするつもりはなかったのだろう。近くにいたシエラにもそれは聞き取れなかった。
けれど、聞かずともその名は知っていた。垣間見た記憶の中で、彼がとても大切そうに呼んでいたからだ。
――永久に、共に。
それが願いだと言うのなら、叶えてやろう。
すべてはくちづけから始まった。ならば、くちづけで終わらせよう。
弱々しく首を振るルタンシーンの顔を両手でそっと包み込み、シエラは瞼を下ろして顔を近づけた。
さあ、くちづけを。
震える唇に終焉を望んだそのとき、氷の砕ける音がした。
+ + +
すべてが眠る、美しい蒼の世界。
蒼は神の色。金は神の色。
人には宿らぬ、神の色。
美しいものは、閉じ込めて。永遠に変わらないよう、閉じ込めて。
思いをそこに封じて、願いをそこに封じて、涙さえ、仕舞い込んで、凍らせて。
なにも恐れることのない、美しい蒼の世界。
溶けることのない、美しい蒼の世界。
祈る者に、願う者に、くちづけを。
始まりはいつもそうだったから。
どうか、くちづけを。
+ + +
「魔物の少年から出てきたこの石は、なにを意味しているのでしょう」
膝をついてそう訊ねたライナの声は、すっかり震えてしまっていた。
ほんの数分前の出来事が、シエラには夢のように思えて仕方がない。ルタンシーンの記憶が流れ込み、口づけようとした瞬間、氷が砕けて世界が戻った。エルクディアに強く引かれた腕は、今も少し痛みを訴えている。
確かに氷塊があったはずなのに、エルクディアもライナも、シルディでさえ、そこにはなにもなかったと言った。氷塊などなく、いきなりシエラがルタンシーンに近寄り、口づけようとしたのだと。様子がおかしかったから止めたのだとエルクディアは言ったが、いまいち腑に落ちない。