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「――ならば、教えていただきたい。言葉一つで、貴神のお心が変わるのですか。私が言を改めれば、そのお考えを、改めていただけるのですか。貴神は、この海を守護なさる海神ではないのですか。みすみす穢れを許しただけでは飽き足らず、人の子の力を借りねば清浄を取り戻せぬ、それが守護神なのですか。穢れを祓い、この海には平穏が戻った。貴神のお力を邪魔するものは、すでにないと存じます。その崇高なるお力では、神器一つ修復することはできないのでしょうか」

 慣れない言葉に、舌がもつれそうになる。言いたいことはすべて言ってやるつもりだった。どんなに肩を震わせていようと、この神の理不尽さは変わらない。さらなる怒りを買ってディルートを危険に晒すことなど、今のシエラの頭からはすっかり抜け落ちてしまっていた。
 そもそも、ルタンシーンがあっさり呪詛に負けたのが問題ではないのか。容易く神器を傷つけさせるような神が、どうしてこんなにも偉そうにしている。相手が神だからと仕舞い込んでいた子供のような不満が、形だけは丁寧な言葉に乗って口から滑り出る。

「貴様……、よくも俺にかような口を……」
「激情に任せて力を振るうは、神も人の子も変わらぬように思えます」
「ふざけるな、黙れッ!! 今すぐにこの街を沈めてくれる! 神官、終わりの鐘を鳴らせ!」
「ルタンシーン様、なっ、なにとぞ、なにとぞお許しを!」
「ならん! かような侮辱は断じて許せん!」

 憤怒のままシエラを突き飛ばしたルタンシーンは、神台から飛び降りるなりゴルドーを怒鳴りつけた。その瞳が青灰色から黄金に色を変えているのを見るなり、シエラの胸が大きく跳ねた。金の瞳は、神の色。蓼の巫女の桃色の髪が、ぼんやりと蒼く陰りを帯びているようにも見える。中に降ろしたルタンシーンの力が上回っているのだろう。人の身にはかなりの負担を強いているはずだ。
 ライナが強くロザリオを握っているのが見えた。せっかく温かい湯に浸かってきたのに、雪山にでもいるかのように顔が青ざめてしまっている。
 ルタンシーンを激怒させたのは自分だというのに、その実感がまるでない。石床に額を擦りつけるゴルドーが、どこか遠くの景色のように思えた。

「――はき違えるな」
「シエラ……?」

 今の声は、エルクディアだろうか。
 遠い。声が。音が。すべてが、分厚い膜の向こうで響いている。
 キン、と、澄んだ氷の音がする。それだけがやけに近く聞こえた。手の先が冷たい。視界が蒼白く染まっていく。きらきらと、白い結晶が舞い落ちる。

 美しい蒼の世界に、誘おう。
 朽ちることなく、すべてが美しく眠る、その世界へ。
 勝手は許さない。許されるはずがない。なによりも愛しい存在を、奪うだなんて。

 あれだけ響いていた足音が、不思議と鳴らなかった。ゆっくりとルタンシーンへと近づいたシエラの手が、その頬に触れる。蓼の巫女はシエラよりも背が低い。上から覗き込むように見下ろせば、驚きに満ちた金の双眸と目が合った。
 触れた手のひらから、記憶が流れ込んでくる。
 海。人。少年。鱗。人魚。王。忌み子。反乱。檻。涙。絶望。怒り。――約束。

 ――じゃあぼくらは、これでずぅっといっしょだね。

 そう言って笑った少年が、この海のどこかで眠っている。誓約ではなく、約束を交わした。それはけっして、望んだ形で果たされることはなかったけれど。
 痛みの記憶は、とても根深い。
 「やめろ」どこか怯えたような声が聞こえた。ルタンシーンの声だ。パキン。彼の後ろに、大きな氷の塊が壁になっているのが見えた。気がつけば、氷の世界に閉じ込められていた。四方を薄青の氷が固めている。氷の向こうに人影が見えたが、あれはいったい誰だろう。
 分からぬまま、シエラはルタンシーンの額に唇を寄せた。

「やめろ。――やめろ!」
「なぜ?」
「貴様がまこと姫神であるのは分かった。これ以上、“俺”を覗くな……!」

 あれほど強い力を持っていたルタンシーンが、今や赤子程度の抵抗しかしてこない。シエラを押し返そうとする腕には力が入っておらず、背けた顔はほんの少し震えている。その足元は、氷によって地面に縫い止められていた。
 濡れた体には、この冷気は相当こたえるらしい。睫毛に氷の華を乗せたルタンシーンは、白い吐息を零しながら何者かの名を呟いた。音にするつもりはなかったのだろう。近くにいたシエラにもそれは聞き取れなかった。
 けれど、聞かずともその名は知っていた。垣間見た記憶の中で、彼がとても大切そうに呼んでいたからだ。

 ――永久に、共に。
 それが願いだと言うのなら、叶えてやろう。
 すべてはくちづけから始まった。ならば、くちづけで終わらせよう。

 弱々しく首を振るルタンシーンの顔を両手でそっと包み込み、シエラは瞼を下ろして顔を近づけた。
 さあ、くちづけを。
 震える唇に終焉を望んだそのとき、氷の砕ける音がした。


+ + +



 すべてが眠る、美しい蒼の世界。
 蒼は神の色。金は神の色。
 人には宿らぬ、神の色。

 美しいものは、閉じ込めて。永遠に変わらないよう、閉じ込めて。
 思いをそこに封じて、願いをそこに封じて、涙さえ、仕舞い込んで、凍らせて。
 なにも恐れることのない、美しい蒼の世界。
 溶けることのない、美しい蒼の世界。
 祈る者に、願う者に、くちづけを。
 始まりはいつもそうだったから。

 どうか、くちづけを。


+ + +



「魔物の少年から出てきたこの石は、なにを意味しているのでしょう」

 膝をついてそう訊ねたライナの声は、すっかり震えてしまっていた。
 ほんの数分前の出来事が、シエラには夢のように思えて仕方がない。ルタンシーンの記憶が流れ込み、口づけようとした瞬間、氷が砕けて世界が戻った。エルクディアに強く引かれた腕は、今も少し痛みを訴えている。
 確かに氷塊があったはずなのに、エルクディアもライナも、シルディでさえ、そこにはなにもなかったと言った。氷塊などなく、いきなりシエラがルタンシーンに近寄り、口づけようとしたのだと。様子がおかしかったから止めたのだとエルクディアは言ったが、いまいち腑に落ちない。


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