1 [ 409/682 ]

*第24話


 すべてはくちづけから始まった。
 ――ならば、くちづけで終わらせよう。


+ + +



 水の音が響いた。
 そこに眠っていた男は、随分と前からその音が響いていることに気がついていた。静かだった湖面が騒がしく波紋を広げていくのを感じながら、水の中に体を横たえて、ただひたすらにそれを待っていた。
 ばしゃ。水を踏む音が間近に聞こえ、他者の呼吸を耳に感じた。そこでようやっと、彼は上体を起こした。水の中に沈んでいた体は冷え切っていたが、ここには風が吹かない。滴る雫が小さな波紋を描いていく。暗闇に呑まれた森の奥で、ゆらりと影が大きく揺らいだ。
 闇に溶けそうな褐色の肌を持つ男が、目の前で恭しく膝を折る。纏わりついている見知った嫌な気配に、思わず獣のような唸り声が喉から出た。低く頭を下げた男は、肌に残る神気を掻き消すように魔気を強める。

「ご報告を。――ヒューノイルが、消失いたしました」
「……ヒューが?」

 自らの右腕とも言える黒衣の男、ヘラスは水底についた拳をきつく握る。
 一瞬、彼がなにを言っているのか理解できなかった。ヒューは見た目や言動こそ幼くあったが、側近達の中でも古くから共にいた存在だ。幻影術を得意とし、重力を操る、生粋の魔族だった。外見に引きずられてか、幼稚で軽率な行動も見られたため、危うい部分があるのも否めなかったが、優秀な部下だったことに変わりはない。

「は。助けが間に合わず、大変申し訳ございません」
「構わん。弱きが滅ぶが世の理。だが、しかし……、そうか。あれは眠ったか」

 手のひらに掬い上げた水を見やり、男は小さく息を吐いた。押し寄せてくるこの感覚は、感情と呼んでもいいのだろうか。眠りから覚めたばかりで、頭はまだぼんやりとしている。正しく働いていない頭でものを考えたところで、ろくな結果は得られないだろう。
 目を閉じれば、かつての記憶がよみがえる。何度も繰り返してきた。何度も、何度も。絶望に満ちた哀れな姫神の姿を、何度も見てきた。歓喜に沸く人々の声を、眠りの淵で何度も聞いた。何度も、何度も。
 男は己の空虚な胸に手を押し当て、ヘラスを見た。彼とも長い付き合いになる。これをあと何度繰り返すのか。そう問いかければ、彼はいつだって苦い顔をした。

「重ねて、珠(たま)の存在が知れました。我々にとって、脅威ともなりかねません」
「案ずるな。毎度のことであろう。やがて知れる。……いつも、そうだった」
「しかしながら、此度は“記録者”に動きが見られません。もしや顕現していないのでは……」
「それはない。あれが間違うはずがない。何度選択を違えようと、あれは必ず現れる。そうなれば面倒になるのもまた事実。――なんとしてでも見つけ出し、殺せ」

 ヘラスは一瞬言葉を詰まらせ、頭を下げたまま問うた。

「ですが、……よろしいのですか」

 眠りから目覚めたばかりの体は重い。空を仰いだとて、そこには光などない。深い森の奥にはろくに日が差さない。闇に閉ざされた世界はなによりも心地よかった。
 ヘラスのこの問いは、もしかするとこれが初めてかもしれなかった。どう答えたものかと思案しかけ、すぐに気づいて嘲笑が零れる。考える方がおかしいのだ。答えなど、もうすでに出ているのだから。

「構わん。――殺せ」

 風が吹く。
 ここには風など吹かないのに。吹くはずが、ないのに。

「今度の姫神は、赤子のようだ。神気がここまで届かない。だのに、ヒューを殺したか」
「……時折、娘の体が青く光っておりました。世界すべてを氷漬けにするような、耐え難い冷気を纏って」

 記憶の糸が闇にたゆたう。気まぐれに手繰り寄せれば、光に触れた。広がる蒼い世界に目がくらむ。闇に慣れた者にとって、それは毒でしかない。懐かしい痛みの記憶だ。それはすべての始まりでもあった。永劫続く、嘆きの始まりだ。
 忌々しい。憎々しい。憎悪だけが熱を持つ。高まる魔気に、森がざわめいた。あちらこちらで、目覚めた魔物が歓声を上げている。さあ、行け。屠れ。喰らえ。あの銀を。目障りなあの色を、血で汚せ。闇に引きずり込め。
 そうして、この世界に終焉を。

「――アネフィア」

 蒼い光が再び降り来たると、そう言うのだろうか。
 抗い難い疲労感に襲われて、男は再び目を閉じた。ゆっくりと体が傾き、水の中に沈んでいく。全身が冷たい水に飲まれたとき、すべての音が掻き消えた。


+ + +



 手元の資料が見難いのは疲労が溜まっているせいだとばかり思っていたが、ふと目線を上げると部屋全体が暗くなっていたことに気がついた。とっぷりと日が暮れているにも関わらず、明かりを付け忘れていたらしい。手近なランプに火を入れて、再び記された文字を追う。
 今頃、神の後継者達は大浴場で身を清めているのだろう。侍女達が忙しそうに香油やら花やらを持って走り回っていたので、さぞかし華やかな浴室になっているに違いない。
 レンツォはほとんど意味をなしていない眼鏡を取り、椅子の背もたれに頭を預けた。瞼を下ろせば、汚れた蒼がぼんやりと浮かんでくる。どれだけ汚れても、その色は主張をやめない。けして強い色味ではないのに、当たり前のように意識に巣食う。それが少し腹立たしい。
 あれだけ降り続いていた雨が上がった。海も穏やかさを取り戻し、ディルートの町は明日から復興を目指して動き出すだろう。被害は大きく、とてもじゃないが「めでたしめでたし」と締めくくれる結果ではない。だが、神の後継者がディルートを救った事実は、悔しいけれど変えようがなかった。
 神の力に人は敵わない。まざまざと見せつけられた現実に、思わず舌打ちが飛び出る。どうせならその神の力とやらで、すべて元通りにしていってくれればよかったものを。

「寝ているの?」

 心なしか控えめに声をかけられて、レンツォは首を巡らせた。ノックもなしに部屋に入ってくる人物など知れている。湯を浴びてきたばかりなのか、リオンの黒髪はしっとりと濡れており、肌はほんのりと赤く染まっていた。いつもの仰々しい軍靴も履いていない。白いブラウスと細身のパンツ姿で現れた彼女は、いつもと雰囲気が違うように見えた。


[*prev] [next#]
しおりを挟む


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -