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 ディルートの上空を覆っていた分厚い雲は晴れ、夕陽によって空と海が赤々と染められていた。
 濡れたレンガの壁がようやっと息を吹き返したかのように輝きを放ち、外に出てきた人々が歓喜の声を上げるのを聞いた。喜びの声を聞きながらルタンシーン神殿へ駆け込むと、血相を変えたゴルドーがすぐさま他の巫女達に指示を出し、蓼の巫女を抱えて神殿の奥へと消えていった。
 戻ってきたゴルドーは疲労を目元に滲ませながらも、しっかりとした動作で膝を着き、深々と頭を下げた。

「ああ、ご無事で、ご無事でなによりでございます。姫神様におかれましては、ルタンシーン様の呪詛を解呪して下さったとのこと。我ら神に仕える者一同、言葉を尽くしたとて御礼の気持ちを表しきること叶いません。慈悲深き姫神様。非礼と知りつつも、重ねてのお願いをどうかお聞き下さいませんでしょうか」
「なんだ?」
「お疲れのところ申し訳ございませんが、本日深夜に神降ろしを行います。一度ロルケイト城にて身を清めていただき、しばし休まれたあとで再びこの神殿を訪ねては下さいませんでしょうか」

 神降ろし。
 すなわち、ルタンシーンが蓼の巫女に降りるということか。しかし、蓼の巫女は相当弱っているように見えた。その状態で神を降ろすことは相当な危険を孕んでいるのではないだろうか。
 心配するシエラの手にそっと手を重ね、ゴルドーは小さく微笑んで首を振った。

「蓼巫女様に関しましては、心配はご無用にございます。少々お疲れが出ただけのこと。――今宵ルタンシーン様をお呼びしませんと、またしてもお叱りを受けてしまいますゆえに」
「なら、それで構わないが……」
「その際はどうか、シルディ王子殿下もご一緒にお越し下さると嬉しゅうございます」
「シルディも?」
「はい。……あの方は、ホーリーの次代を担う方。ルタンシーン様のお言葉を賜る良い機会かと」

 深々と頭を下げたゴルドーが神殿の奥へと下がったのをきっかけに、シエラ達はロルケイト城へ戻ることにした。水溜まりを踏んで歩くルチアの背を追いながら、ふいに胸ポケットに仕舞い込んだ珠の欠片を思い出す。
 光を弾いて美しい珠の正体は、いったいなんだったのだろう。ユーリならば分かるだろうか。あるいは、ルタンシーンならば。
 夕陽が照らす蒼い髪を、エルクディアがそっと掬った。蒼を通してなにかを見つめる視線に、シエラの胸がざわめく。

「シエラ、怪我はないか?」
「あ、ああ。今回は特に……。法術で治るものだったし、平気だ。エルクこそ、大丈夫なのか」
「俺も平気だよ。今回はリオン殿や蓼巫女殿もいたし」
「お役に立てたなら幸いです。神の後継者様とアスラナの騎士長さんと一緒に戦えただなんて、皆に自慢できる経験だわ」

 足を引きずりながら、リオンはからからと笑った。
 城の跳ね橋が見えてくる。濡れて光る橋の手前に、二つの長い影が伸びていた。

「あっ、レンツォ! それにシルディも!」

 抱いていたテュールを放り投げ、ルチアは一目散に駆け出した。中空に放り出されたテュールは一度不満そうに火を吐いて、拗ねたようにシエラの腕の中へと飛んでくる。全力で走り、レンツォの胸へと飛び込んだルチアは、年相応の小さな少女にしか見えない。その体をしっかりと抱きとめて、レンツォはつるりとした額に唇を寄せているようだった。その様はまるで親子だ。
 やっとルチアに追いつくと、シルディが視界から消えた。――え。驚く間もなく、癖の強い金茶の髪が足元で揺れているのを見る。雨に濡れ、泥で汚れた地面に構うことなく片膝をついたシルディは、シエラ達に跪拝をとってみせたのだ。
 恭しく垂れた頭は、名を呼んでも上がらない。

「無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます。神の後継者様にはこのディルートを救っていただき、感謝の言葉以外に申し上げる言葉が浮かびません。寛大なお心、そしてその比類なきお力をお貸しくださったこと、誠に万謝いたします」

 地面に頭を擦りつけんばかりのシルディの様子に、シエラはすっかり困り果ててライナとエルクディアに助けを求めたが、彼らも驚いて言葉が出ない様子だった。一国の王子が平身低頭しているのだから、それも無理はないだろう。
 縋るようにレンツォを見たところで、彼は冷めた双眸でシルディを一瞥し、その背を容赦なく踏みつけた。

「ふぎゃっ!」
「この馬鹿王子が。なにをしているんですか、まったく。ここは『ご苦労、褒美をやるから言ってみろ』くらいふんぞり返って言ってのけるところなんですよ。それをなんですか。潰れた蛙のように地べたに這いつくばって情けない。こんな姿を民が見たらどう思うか、考えてもみなさい」
「潰れた蛙のような姿にしているのは間違いなくあなたなのだけれどね、レンツォ? 早くその足をどけて差し上げたら? 王子殿下はこのあと、ルタンシーン神殿へお呼ばれされているんですから」
「神殿に?」
「そだよぉ。あのね、神降ろしってゆーのをするんだって。だからシルディも来てねって、ゴルドーが言ってた!」

 腕に抱いたルチアの言葉に耳を傾けながら、レンツォが潰れたシルディの背を踏み躙る。ぴくぴくと指先を動かして地面を掻く姿が痛々しい。

「でしたらまず身を清めねばなりませんね。――ほら、とっとと起きなさい馬鹿王子。いつまでそうしているんですか」
「ぷはっ! ちょっと、酷いよレンツォ! 誰のせい!?」
「あははっ、シルディの顔泥んこ〜!」
「笑わないでよルチア! ああもうっ!!」

 唖然とするシエラ達を前に、シルディは泥汚れの残る顔をふにゃりと歪めて笑った。あたたかい笑顔だ。

「本当に、無事でよかった。ありがとう、みんな」

 雨が上がったホーリーに、優しい風が吹き抜けた。


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「おっと……」

 急に重たくなった体にクロードは一瞬足を取られかけて、慌てて壁に手をついた。体に水気(すいき)が纏わりついている。あれほどまでに荒れ狂っていた風雨が次第に弱まり、三十分も経たないうちに分厚い雲が千切れて消えた。世界を赤く染め上げる夕陽が、細い坂の下から差し込んでくる。
 坂の上から見える海はとても穏やかで、海神にかけられた呪詛が解かれたことは明白だった。
 穢れが消えた。流れ出る穢れに侵され、喘ぐ人魚はもういない。魔物へと堕ちた人魚は、もうすでに大半を浄化している。
 一瞬にしてのしかかってきた疲労に、クロードは神父服の襟を乱暴に緩めて壁にもたれた。大きく息を吐けば少しは楽になるような気がして、荒い呼吸を繰り返す。
 ルタンシーンが力を取り戻したのだ。びりびりとした感覚が肌を刺す。それがより濃く感じるのは、かの神殿がそびえる方角からだ。

「なーなーくろーどぉ。シャマここきらぁい。早く火のあるトコ行こうぜ」
「はいはい、分かってるよ。オレもここは苦手だ」

 かさかさとなにかが這う音が聞こえたかと思えば、ぎゅっと手を握られてクロードは溜息を吐いた。それまで自分以外に人影はなかったはずの路地裏で、褐色の肌を持つ少年がこちらを見上げている。まだ五つか六つほどの少年は、アーモンド形の大きな瞳をきらめかせて唇を尖らせた。強く握った手の温度は高く、じわじわと内側から火を灯したような感覚を植え付けてくる。
 その温度に集中していると、呼吸が少し楽になった。
 燃え上がる紅蓮の炎のような髪を撫でてやれば、シャマは嬉しそうに目を細める。

「わだつみの力、強くなってる。水霊が騒いでっから、シャマしんどい。抱っこして、くろーど」
「はいはい。――よいしょ、っと。まったく。歩きたくないほどしんどいなら、いつもみたいに帽子の中にいればいいでしょうに」
「やだ。たまには外見てーもん。ここ最近、ずーっと大人しくしてただろ? シャマ、退屈で退屈で死ぬかと思ったんだからな!」
「何度も大技使ってあげたでしょーが。それに、神の後継者の神気も味わえたでしょ?」
「シャマ、あいつの神気好きじゃない」

 きゅっと首に腕を回して抱き着いてきたシャマは、クロードの耳朶を食みながらそんな風に言った。抱き上げたまま港へと向かう。周りには親子か歳の離れた異母兄弟にでも見えているのだろう。誰もその光景を不思議に思う者はいない。
 クロードの首筋に鼻先を埋めて「いーにおい」と満足げに笑ったシャマは、琥珀色の瞳を何度か瞬かせて海を見つめた。

「姫神の神気は、別物なんだぜ。風も、水も、もちろん火だって、それ以外にも全部纏ってる。姫神は精霊を選ばないし、精霊だって姫神を選ばない。でもさ、シャマはあいつの神気おいしいと思わない。たぶん、他の奴も。――だって、溶けねーもん」
「溶けない?」
「そ。なんか氷みてーなの。水気とはぜんっぜんちがう。あいつのは、痛い。氷の中に全部ある感じっつったら分かる? 火も水も風も、ぜーんぶ氷の中にあって、そこから選んで使ってる感じ。シャマがどんなにがんばっても、あいつの氷に閉じ込められたら出らんねー気がする」

 人とは明らかに異なる感覚に、クロードはぴくりと眉を押し上げた。
 ディルートにルタンシーンの神気が漂う。力を取り戻した海神の守護が、一時的にかなりの濃さを増してディルートを取り巻いているのが分かった。

「でもさぁ、くろーど。姫神って、あんなんで大丈夫かなぁ」
「大丈夫って?」
「なんかさぁ、ぜんっぜん強そーな感じしねーの。他の奴らもみんな言ってる。精霊はみんな姫神のこと、面白がってんだ。珍しいから。でなきゃあんな下手くそな神言に応えてやるわけない。でも、なんでだろーな。よわっちぃくせに、たまーに、逆らえないほど怖くなって……。あ、そうだ。だからだ。姫神の力そのものも、氷の中に閉じ込められてる気がする。それが出てきたら、すっげー怖いんだ」
「……なるほどねぇ。よっぽど異質なわけだ、あのお嬢さんは」
「シャマは前の姫神知んねーから分かんない。興味ねーし。シャマにはくろーどがいればそれでいい」

 より強くしがみついてくる小さな体は、次第に燃えるように熱くなっていった。それが水気に溢れたこの場ではとても心地が良い。坂の下から吹き上げてくる海風に飛ばされないよう、山高帽をしっかりと押さえてクロードは外套を翻した。
 癖の強い銀髪が、夕陽によって赤く染まる。燃え立つ炎のように。

「なー、くろーど。シャマ、ハラへったぁ」
「はいはい。ご飯はもうちょっとあとにしようね」

 不満を漏らすシャマが、恨みがましげにクロードをねめつける。
 その琥珀色の双眸は、爬虫類のように瞳孔が縦に細く割れていた。



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