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「<水よ、集まりて黒炎を呑め!>」
「わしもお邪魔しますよって〜」
「あら、なら私も失礼するわ」

 蓼の巫女の錫杖が鈴を鳴らし、リオンのレイピアが軌跡を残す。テュールの炎が洞窟内を燃え上がらせた。いびつな球体となった水の塊がヘラスの剣へ纏わりつき、炎の威力を弱めた。
 一対一である必要はない。そのことに気がついて、シエラはロザリオを握る指先に力を込めた。エルクディアが渾身の力で剣を押し返し、ヘラスの脇腹を斬りつける。半身を捻って剣先を避けたヘラスは、切り裂かれた黒衣を見て眉根を寄せた。すぐさま叩き下ろされる錫杖を肘で受け止め、大きく跳んで間合いを取る。
 その間にもヒューの体は灰化が進んでいた。さらさらと光る灰が砂時計を傾けたかのように零れ、太腿の半分が形を失い、結晶と化した血は地面に落ちた瞬間に灰に変わった。
 もう一度氷の杭を生み出そうと指先に意識を集中させたが、杭どころか氷の粒一つ現れない。あれほどまでに洞窟内を青く染め上げていたロザリオの光も、今ではすっかり消え失せていた。ついさっきまでそこにあった力の喪失に、シエラは瞠目した。
 風が鳴き、鈴が笑い、ライナの腕に引き寄せられて結界の中で後ろから抱き締められる。それは自分がふらついていたからだったのだが、体を受け止めたぬくもりにふいに現実に引き戻されたような気になった。今までどこか別の場所にいたかのような感覚の奇妙さに胸がざわつく。

「<闇は光に、魔は聖に! 光矢、その業を貫け!>」
「ああああああっ、うぐ、ガ、ハッ、うぁああああああああ!」

 放った矢は掠めただけにも関わらず、流れる神気がつらいのかヒューは喉を掻き毟りながら絶叫した。左太腿に刺さった氷の杭が、灰に攫われて濡れた地面へと滑り落ちる。足の付け根までが灰となったのだ。杭を追うように、なにかが転がり落ちた。カランと澄んだ音を立てるそれに、自然と視線が集中する。
 水気を払い剣を構えたヘラスが血相を変えて、それを拾うべく駆け出した。

「テュール!」
「がうっ」
「くっ……、どけぇっ!!」
「させるか!」

 エルクディアの剣先がヘラスの脛を斬りつけ、蓼の巫女の錫杖が行く手を阻む。シエラの声を受けて弾丸のように滑空し、テュールはヒューから転がり落ちたそれを咥えて戻ってきた。
 小さな竜の口の中にあったものが、差し出した手のひらの上に落とされる。

「かえ、せ、返せぇっ!」
「珠(たま)、ですか? なにか字が……」

 もがくヒューが必死に手を伸ばし、ヘラスが火炎を放つ。蓼の巫女によって瞬時に築かれた白い扉で炎は受け止められ、薄闇を一度明るく照らして霧散した。扉はすぐに焼失したが、彼らの動きを止めたその僅かな時間がシエラにとってはなによりも貴重な時間となった。
 手のひらに乗った、小さな珠。透明で虹色に光を弾くそれは水晶のようであったが、中には黒い靄が閉じ込められている。その靄が文字を形作っているのが見えたが、何語なのかは分からない。見たことのない字体だった。
 けれど、それは不思議とシエラの中に流れ込んできた。靄が揺れるたびに、心臓がつきりつきりと小さく痛む。まるで共鳴するようだ。
 頭の奥で、声が聞こえた。

「“ヒューノイル”……?」
「ぐっ、うう、あァっ、ヴ、ァアアアアアアア、ガッ、ア!!」

 呼べ、と言われた。
 それが「名前」だと直感が判断した。
 絶叫に呼応して、手のひらの上で球が割れる。ひび割れた断末魔とは裏腹に、澄んだ音を立ててそれは砕けた。靄が逃げる。淀みを失った珠は、ただただ美しい欠片となった。
 ヒューの唇から声の代わりに血が混じった灰が噴き上げ、彼は目を見開いて天井を仰いだ。形を保っていたのは、そこまでだ。ヘラスの腕の中から、どさり、と、灰が落ちた。ヒューがいない。その場にいた誰もが、不可思議なその光景に魅入っていた。

「――間に合わなかったか」

 ヘラスの静かな呟きが、終わりを告げた。
 あの少年は、浄化されたのだ。
 ヒューを――、真名ヒューノイルを、この手で祓魔したのだ。それはあまりにもあっけない終わり方で、実感や達成感といったものは微塵もわいてこなかった。ただ困惑だけが胸をよぎる。
 手の上で輝く割れた珠、そこに刻まれていた真名。呼んだだけだ。呼んだだけで、彼は灰となった。

「姫神よ。お前はなぜここにいる」
「答える義理はない!」
「ならば問え。己に。お前達の信ずる神に。お前はなぜここにいる、姫神よ。なぜ、海神に構う。捨て置けばいいものを」
「どういう意味だ? さっきから訳の分からないことばかり!」

 彼らの口ぶりでは、まるでルタンシーンの方がシエラよりも格下であるかのようだ。仮に神の世ではそうだとして、なぜそれをシエラにわざわざ言うのだろう。その意図はどこにあるのだろう。
 血色のまなこが、灰と砕けた珠を交互に見た。周りを包囲されたヘラスは臆した様子も慌てた様子も見せず、ただ静かに瞳を伏せる。

「哀れな姫神。忌まわしき人の子。我らが主の嘆きは届かぬか」
「なに……?」
「終焉を選べ。すべての救済を望むならば。お前が真に姫神ならば」
「あんまし訳の分からんこと言わんといてくださいですー。シエラさまはまっこと姫神さまであらせられる。そして、ルタンシーンさまが姫神さまのお力をお求めになられた。魔の者がそれをどうこう言うやなんて、えらい不思議やないですかー? それとも、時間稼いではりますですー?」

 リン。鈴が鳴り、錫杖の先がヘラスの顎を掬った。エルクディアの剣先も、すでにその喉元に突き付けられている。まさに窮地に追いやられているというのに、彼はくつりと笑い、嘲るようにテュールを見た。

「幾度時が変わろうと、人の子はなにも変わらぬ。哀れな姫神。次に会いまみえることあれば、慈悲を持ってお前を屠ろう。――スパケ・オルゲガン!」
「なっ、<聖鎖、彼の者を縛せ!>」

 魔気が揺らぐと同時に神言を紡いだが、巻き起こった突風に無残にも跳ね返され、鎖が千切れる。光の帯が萎れるように地に落ちた。
 なんとか踏みとどまったエルクディアが逃がすまいと手を伸ばしたが、すでにそこからは人影が掻き消えていた。
 魔気が消える。ルタンシーンの神気が徐々に戻り始め、波の音が洞窟内に木霊した。どっと疲労が押し寄せ、シエラは膝から崩れ落ちるように尻餅をついた。すぐさまライナとエルクディアが駆け寄ってきて、労わるように肩に手が触れる。彼らに大丈夫だと返していると、甘えるようにテュールが鳴いて頬を舐めてきた。珠の欠片を食べたそうにじっと見つめているので、軽く鼻先を押しやって牽制する。
 擦り傷だらけの手のひらの上に、きらきらと輝く欠片がいくつも乗っていた。魔物の体の中から転がり落ちてきた、真名の刻まれていた珠だ。あれだけの魔気を放ち、禍々しい力を持つ者の中にあったというのに、その珠は冬の空気のように透き通っていた。

「……綺麗だな」

 それはまるで、神の祝福を受けた輝きのようであった。

「それがいったいどういうものなのか、調べなければなりませんね」
「この中に真名が刻まれていた。……浮かんでいた、と言った方が正しいのかもしれないが。とにかく、それを呼んだ瞬間に――」

 言いかけたシエラの言葉を遮るように、背後で鈴の音が鳴り響く。大量の鈴をばら撒いたかのようなそれに驚いて振り向けば、そこには青褪めた蓼の巫女が地面に臥していた。

「蓼巫女!? おい、どうした!?」
「とりあえずここから出ましょう! エルク、蓼巫女さんをお願いします! それから道案内も! ――<火霊、風霊よ、導きの光を示したまえ!>」

 神気に満ちた空間には、呼び寄せられるように精霊達で満たされていた。風が吹き抜けて光が灯る。
 エルクディアが抱き上げた蓼の巫女はぐったりとして人形のようだった。
 蓼の巫女に案内してくぐり抜けた穴を再びくぐりかけたところで、シエラははっとして蓼の巫女が倒れた辺りを見回した。そこにはなにもない。魔物がいたことを示す聖灰が輝いている以外には、なにも残されていなかった。
 前を歩くライナも、後ろを歩くリオンやルチアも、なにかを抱えている様子はない。
 だらんと投げ出された蓼の巫女の手には、あの鮮やかな珊瑚朱の錫杖は握られていなかった。


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