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「ねぇ、あの子の動き、止めればいーの?」
「ルチア?」
「影に潜っちゃうから困ってるの? なら、あの子の動き止めたらシエラは勝てる?」
「危ないから下がっていろ。お前はライナの傍に、」
「答えてよぅ! あの子、止めたらいーの?」

 獲物を前にした子猫のような瞳が、まっすぐにシエラを見た。
 破壊された泉の祭壇に立ったヒューが、けらけらと腹を抱えて笑っている。

「うっそ、信じられない! 最後はそんな子供に頼るんだ!? ていうかなんでそんなの連れてきたわけ? 囮?」

 ルチアの毒は、魔物にも効く。
 脳裏をよぎった言葉に、指先が震えた。小さく頷けば、ぱっと少女の顔が華やぐ。

「殺しちゃだめ? ――だめだよねぇ。だいじょぶ、ルチアちゃんとできるよ」

 言うなり、小さな唇がシエラのそれに重なった。ホーリーに来てから唇を奪われてばかりだと、頭の片隅でそんなことを思う。驚きすぎると、不自然なほどにどこか冷静になってしまうらしい。
 しっかりと頬を両手で掴まれ、呼吸しようと開いた唇の隙間に舌が捻じ込まれる。強く舌を吸われ、背筋をぞくりとした感触が這った。無理矢理に引きずり出された舌先に歯を立てられ、痛みに怯えた舌の表面を尖った犬歯が引っ掻いていく。おまけのように唇を舐められて、ようやく解放されたシエラの口端からはうっすらと赤が混じった唾液が零れていた。
 ――血が、流れた。
 神の後継者の血を口に含んだルチアが、満足そうに頬を緩める。

「ぷっ、あっはははは!! ははっ、なに、なにそれ! 僕を笑い殺したいの!?」
「ねーねー、あなたもルチアとちゅーする?」
「人間と? 僕が? あははっ、いいよ、する? したい? しようか! 色仕掛けなんかしてくるのはお前達が初めてだよ、面白い! 本当に今度の姫神は哀れだね」

 ルチアがシエラを見、エルクディアがこちらを向いた。
 それがすべての合図であった。

「<聖鎖、聖縛、神速を持ってかの魔を追い捕らえよ!>」
「エルク、お願い!」

 光の帯が走る。ヒューがどれほど幻術が得意でも、シエラの放った光の帯は間違えない。走った帯の先にいるのが本体だ。テュールが応じるように光を吐き、ヒューの目をくらませた。
 ルチアが叫ぶと同時にエルクディアがすべてを汲んで、伸ばされた小さな腕を強く掴んだ。光の帯を追うように、ルチアの体が投げられて直線を描く。
 聖鎖を砕こうと黒球を形作っていたヒューは、弾丸のように飛んできたルチアを避けきれずに――あるいは脅威とみなさず避けなかったのか――そのままもつれ合うようにして地面を転がった。泉の淵ぎりぎりまで滑っていった小さな体が二つ重なり合う。砂煙の舞う中、ルチアがヒューに口づけるのが見えた。
 ヒューの表情に嘲笑が浮かんだのはほんの一瞬だ。それはすぐさま驚愕へと変わる。

「うっ、ぐ、がはっ、ぅあああっ!」

 闇雲に突き飛ばされ、宙を舞ったルチアの体を素早くエルクディアが抱き止めた。
 喉を掻き毟り、ヒューは苦しみ喘ぎながらも立ち上がり、血色に染まった双眸でルチアを睨んだ。零れ落ちた小箱を蓼の巫女が拾い上げ、シエラの元へ駆け寄ってくる。

「シエラさま、解呪を!」

 ヒューの怒号が轟く。ライナの神言が高らかに放たれる。鈴の音が、響く。
 箱を開け、シエラは導かれるままに心臓を手に取った。流れ込んでくる嘆きの歌が、悲しみの光景が、胸をきつく締めつける。そうか。苦しいか。悲しいか。
 神に愛される幻獣が、神を穢す呪詛となった。それは何物にも代えがたい裏切りだったろう。つらかったろう。
 掬い上げた心臓に、シエラは優しく口づけた。
 蒼い光がロザリオから溢れ、洞窟内を海の底のように染め上げた。

 ――救いを。魂の救済を。慈悲を。生まれた悲劇に、奇跡を。

 すべては口づけから始まった。だから、口づけで終わらせようではないか。
 唇が離れた瞬間、瘴気を放っていた心臓は一度だけ強く拍動し、シエラの両手の上で灰となった。さらさらと零れていく灰の中から、雫型の透き通った石が現れる。
 ホーリーの国旗を思い出した。涙型の石を受け止める、人魚の姿。

「ふざけ、る、なっ……! ぐぅ、はっ、ぁ、なんだよソイツ、化け物じゃないか!! 出来損ないの人間が、化け物を引き連れてやってきたの!? お笑いだよねぇ!!」

 呪詛は解けた。瘴気は消えた。
 魔気や血で穢されているものの、洞窟内には凛冽な空気が戻り始めている。ここはルタンシーンの心臓部だ。じわじわと神気が高まり、蒼い光が強さを増した。壁一面が青く染まる。髪が靡いて川のような流れを作り、魔物の死骸が次々に聖灰へと帰す。
 口から血を吐き、ヒューは苦しげに胸を押さえた。聖血を基に作られたルチアの毒は、内側から少年を苦しめているのだろう。
 何度も瞬きを繰り返すうちに、音が消えた。その場には静寂だけが存在した。ぱきり。どこかでなにかが凍る音がする。それは徐々に大きくなり、気がつくとシエラの手のひらの上に氷の杭が浮かんでいた。ガラスのように透き通った杭は、きらきらと蒼白い結晶を零しながら宙に浮いている。
 ――なんて、綺麗。
 嬉しい。こんなにも綺麗なものが見られるだなんて。胸を喜びが満たした。シエラの指先を結晶が追う。動かすたびに、きらきらと光が追いかけてくる。

「<――行け>」

 微笑んだまま、そっと杭の尻を指先で押した。軽く触れただけだ。
 しかしそれは強く引き絞られた弓から放たれた矢のように空(くう)を裂き、猛烈な勢いをつけて一直線にヒューの胸へと突き刺さった。氷の杭が描いた軌跡に蒼白い結晶が舞っている。星屑を散りばめたような光景に見惚れていたシエラの耳を、ヒューの絶叫が汚した。
 薄い胸に、拳ほどの太さの杭が深々と突き刺さっている。ぱきり。なにかが凍てつく音がする。

「ゥ、ア、ぁああああああああっ!」

 杭を抜こうと両手で掴んだヒューが、触れるなりさらに悶絶した。美しい氷の杭が冷たい熱で手のひらを焼いたのだ。血が流れ、氷を染める。青い影を生んだ透明な氷が赤く濡れ、凍った血が雪のように華を咲かせて落ちていく。
 じりじりと後ずさるヒューは冷や汗を浮かべ、悲鳴の合間に何度も「来るな」と叫んだ。そこでようやっと、シエラは自分が彼に近づいていたことに気がついた。
 指先がひどく冷たい。ふと視線を滑らせれば、そこには三本の杭が新たに生まれ、きらきらと輝いていた。
 考えるまでもなく、頭に言葉が浮かぶ。

「<凍てつき、凍え、すべてを抱えて“消えろ”>」

 手のひらで風を起こすような優雅な仕草で手首を返すと、三本の杭が順番に放たれていった。一本は左太腿に。一本は右脇腹に。そして最後の一本が、右胸を貫こうと速度を速める。
 刹那、影が降りた。
 それまで静かだったシエラの耳に、再び喧騒が戻ってくる。エルクディアの怒号がすぐ後ろで聞こえ、腕を引きたくられて背に庇われた。転びそうな体勢を整える前に、鋼を打ち鳴らす音で目が覚める。
 長剣が重なり合い、ライナが悲鳴を上げた。エルクディアの肩越しに、闇に溶ける黒衣の男が片腕で剣を交わらせているのが見えた。くすんだ金髪がぼんやりと闇の中に浮かび、乾きかけた血を連想させる暗い赤色の双眸が、鋭くシエラをねめつける。
 男はエルクディアの剣を押し戻して素早く後ろに跳び退った。泉の水面に立ち、脇にヒューを抱えて平然としている姿はあまりにも不気味だ。肌に刺さるような魔気はない。だが、それが逆に彼の魔族としての地位を語っていた。

「ヘラ、スっ、なんで」
「喋るな。……灰化が進んでいる」
「痛い、痛いよ、ヘラスぅ……、ぐ、ぁああっ!」

 呻いたヒューの左下半身は、足先から徐々に灰となり崩れ始めている。心臓を狙った杭はヘラスと呼ばれた黒衣の男に叩き落されたのだろうが、足に刺さった氷の杭は絶大な効果をもたらしたらしい。
 すでに膝までが灰となり、ヒューは痛みに喘ぎながら涙を浮かべてヘラスに縋りついた。

「お前、誰だ」
「答えると思っているのか、姫神よ。――クレディ・フレム」
「ッ、シエラ、下がれ!!」

 ゴッと音を立てて黒炎を纏った長剣を、エルクディアが両手で受け止めた。刃を手で支えれば肉が焼ける。なんとか柄を握り締めて受けたが、相手は片腕だというのにその力は凄まじいものだった。熱気と重みで、エルクディアの額に汗が光る。

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