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 暗がりに、鈴の音が高らかに響く。
 浄化を促す神言がそこに乗り、魔に堕ちた体を聖灰へと変えていく。蓼の巫女はシエラとライナが紡ぐ神言を聞きながら、珊瑚朱の錫杖を顔を失くした人魚の喉へと突き立てた。それを追うようにリオンがレイピアを振るう。足取りは危ういが、それでも彼女の動きは武人を思わせた。でこぼことした足元が動きづらいのだろう。しきりに眉を顰めている。
 エルクディアと蓼の巫女、リオンそしてテュールが動きを封じた魔物を、シエラの神言が浄化していく。発せられる聖なる炎、そして光の帯。すべてを一瞥し、少年の哄笑が反響する。

「トレゴ・イルジオン!」
「<金剛殻(ダイヤモンド・シェル)!>」

 ヒューの魔術を、ライナの結界が阻む。こめかみに汗を流すライナは、それでも毅然とロザリオを握っていた。
 彼女の脳裏によみがえった鮮血は、心に痛みを刻んでも結界を崩すほどのものではない。

「あっれ? もしかして、あの記憶もう効かない? 残念だなぁ。あーんなにオイシイ記憶、久しぶりだったのに」
「何度も同じ手が通用すると思ったら大間違いですよ! <数多の罪を絡め取り、聖なる声が要とならん! 贖罪の檻にて魔を捕らえよ!>」
「うわ、あっぶな! ――あははっ、でもそっか、人間も一応成長するんだね」

 ヒューを狙った檻は顔のない人型の魔物を数体閉じ込めただけに終わったが、檻が掠めた少年の腕は赤く爛れていた。檻の中でもがく魔物達が苦しげに呻いている。すぐさまシエラが神言を紡いで浄化を促すと、彼らは一瞬で聖灰に変わって姿を消した。
 シエラの胸元で、ロザリオのブルーダイヤモンドが青く発光している。傷を負いながらも大方の魔物を祓魔し終えたところで、シエラはやっとヒューと向き直った。呪詛の入った小箱は少年が脇に抱えている。エルクディアが何度も奪おうと踏み込んでいるが、相手は幻影に加えて転移まで得意としているのか、剣先を寸前で避けては背後に立って嘲笑った。

「それにしたってさぁ、海神(わだつみ)の呪詛を解くのに姫神が出てくるって面白いよねぇ!! 今までこんなことなかったよ。――スヴァルト・マッサ!」
「<水壁!>」

 放たれた黒球を、瞬時に構成した水の壁が吸収し、灰に変えてシエラの身を守った。
 跳び退ったヒューが人魚の半身を掴み、勢いよく投げつけてきたのを、リオンが横からレイピアを薙いで軌道を逸らす。それでも腐った血飛沫が顔に飛び、生臭い臭気が気道を埋めた。ぐちゃり。地に落ちた人魚だった肉塊が、恨みがましげな音を立てる。
 シルディが見たらまた嘆くだろう凄惨な光景だ。優しい王子はきっと胸を痛める。
 しかし、今のシエラには哀れな人魚の末路を憂うことなどまったく頭になかった。ずくずくと痛む頭を支配していたのは、先ほど吐き出されたばかりのヒューの言葉だ。

「“今までこんなことなかった”? どういう意味だ」
「え? だってどう考えてもおかしいでしょ。腐っても姫神は創世神の愛子(まなご)なのにさ、なぁんで海神なんかに使われてるんだか! ていうか、おねーさんなんにも知らないんだね。カワイソー。記録者から聞いてないわけ?」
「記録者?」
「なんにせよ、ここで死ぬから関係ないか。フェルステーラ!」

 そのとき、耳慣れない言葉が左右から鼓膜を打った。

「ノウマクサン――……」
「応え(いらえ)、コラルス・ヴェルミオン。闇に光の扉を開かんがために!」

 先に滑り出したリオンの言葉に重ねるように、蓼の巫女が声高に叫んだ。共通語ではない二人の言葉がなにを意味していたのかシエラには分からないが、目の前で起こる変化だけは見て取れる。
 蓼の巫女が持つ珊瑚朱の錫杖が淡く発光し、澄んだ音を響かせる。地面に垂直に打ち鳴らした瞬間、錫杖の先から同色の花弁が溢れるように舞った。視界を埋め尽くす花弁がすべて地に落ちると、そこには薄闇の中に白い扉が浮かんでいた。ロルケイト城の中でも見られた愛らしい流線型の柱には蔦が巻きつき、小鳥が止まっている。扉の中央を錫杖で強く叩くと両開きの扉が重たい音を響かせながら開いたが、向こう側は白一色でなにが広がっているのか分からない。
 かと思えば、リオンの頭上を鳥が滑空し、ヒューの頬に鋭い爪を立てた。赤い筋が走った頬に手を当て、ヒューが目を丸くさせている。まさか傷を負うとは思っていなかったらしい。鳥は少年の手から放たれた黒球を受け、無残に燃えてひらひらと落ちてきた。――紙だ。焼け焦げたそれは生きた鳥ではなく、白い紙で作られたものだった。
 テュールがどこか怯えたように身震いし、ルチアの頭上で羽を休めた。

「――嫌な感じがすると思ったら、そういうこと」

 怨嗟に彩られた表情で、ヒューは蓼の巫女が作り出した扉を睨んだ。
 歯車の回る音が扉の向こうから聞こえてくる。からから。ぎしぎし。次いで聞こえてくるのは、風の音か、それとも獣の声か。ほーうほーう、るぉおおん、ひゅうう。
 扉の背面に回り込んでもそこにはなにもなく、一見すればただの巨大な額縁だ。枠を通してヒューの姿がはっきりと見えた。
 鼻を鳴らしてヒューが無造作に黒球をシエラめがけて放ったが、それは扉に吸い込まれるようにして掻き消えた。

「蓼巫女、それは……」
「内緒ですよ、シエラさま!」

 そう笑って蓼の巫女が錫杖を支えに壁を蹴り、円を描くように錫杖を振り下ろしてヒューの真横に叩きつけた。砕けた岩が小石となってその場に転がる。あの華奢な体のどこにそんな力があるのだろう。
 血相を変えたヒューが黒球を鋭い爪に変えて手に装着し、無茶苦茶に払って蓼の巫女の袴を引き裂いた。藍色の布が大きく裂け、露わになった太腿に三本の赤い線が刻まれる。そこに、不思議なものを見た。
 シエラの瞳は、魔気を感じれば暗闇の中でも見通すことができる。一瞬垣間見えたそれは、シエラにしか見ることができなかっただろう。避けた布の隙間からちらと見えた細い左の内腿に、なにやら痣のようなものがあった。稲穂を思わせる形の痣は、流れた血を受けて濃い桃色に光っているようにさえ見えた。
 すぐさま蓼の巫女は体勢を整えて足を帯で縛ったが、妙に焼きついた痣の形がシエラの頭から離れない。ある意味、罪禍の聖人であるリースにあった逆十字の痣よりも、それは強く印象に残った。

「ああもうムカつく! 聞いてないんだけど、こんな異端がいるなんてさぁ!!」
「お仕置きや言うたやないですかー。ねぇ、リオンさま」
「ええ、その通り。悪い子は罰を受けるのよ、坊や」
「……はっ、バッカじゃない? なにが罰だよ。罰を受けるのはお前達だろ! 愚かな人間、哀れな姫神!! 全部消えちゃえ、ウルデレイク・アーラ!」 

 今までとは比較にならない重力の塊がヒューの右手に生み出され、蓼の巫女が生み出した扉めがけて放たれた。凄まじい風が洞窟内を渦巻、髪や服を砂と一緒に容赦なく巻き上げる。腕を交差して目を庇ったが、礫は否応なく全身を叩いた。
 力の拮抗する音がする。石の削られていく音が徐々に大きくなり、やがて大きな悲鳴を上げて扉が砕けた。一部が欠けた扉は、靄のように形を持たなくなり、見る見るうちに霧散する。リン。鈴を鳴らし、蓼の巫女が苦い顔をしたのが見えた。

「もうさ、面倒だから全員できなよ。人間の力じゃ敵わないってコト、僕が教えてあげるからさ」

 挑発に乗ったわけではない。だが、一瞬見せた隙に付け込むよりは他なかった。テュールが炎を吐き、視界を奪った隙をついてシエラの放った光の帯がヒューの足首を捉える。それを払う合間にリオンが右から、蓼の巫女が左から、そしてエルクディアが前から追いつめる。
 しかしヒューは音もなく影に潜ってシエラの眼前でにたりと笑い、目と鼻の先で小箱を開けてみせた。すぐそこで立ち込める瘴気に頭が痛む。
 ヒューの指先から放たれる黒球を打ち阻み、肩で息をするシエラの背中にとさりと重みがのしかかってきた。首に回された小さな手が、そっとシエラの頬を撫でていく。



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