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 他愛のない会話をしばらく楽しみ、ソランジュは午後の業務に戻るために立ち上がった。縮こまっていたせいか、立ち上がった途端に膝が鳴る。いつもとは逆に見下ろしたフェリクスの顔は、少し疲れているようだった。

「それじゃあ、お仕事に戻りますね」
「おー。……あ、そうだ、嬢ちゃん。一つ頼みがあんだけどよ」
「はい、なんですか?」
「昔のダチが帰ってきてんだわ。ほら、前に言ってたろ。自称天文学者のうさんくせーオッサン。まあ、んで、そいつと今夜あたり宴会でもすると思うんだよな。だからまた夜にでも、二日酔いの薬持ってきてくれや。俺は別に平気なんだけどよ、あの馬鹿、毎度毎度二日酔いで吐きやがるから」

 フェリクスはこちらを見ない。視線は足元に落とされ、武骨な指先が野草を撫でている。
 他に意図があるのかは分からない。けれど、夜にまた会えるという、その事実がソランジュの胸に優しい熱を与えた。頬が緩む。白衣の下で揺れる小さな片翼の首飾りを握り締めて、緩むままに笑顔で「はいっ」と返事をし、跳ねるように走り去った。
 正直に言えば名残惜しいけれど、ああでもしないといつまで経っても離れられそうになかったからだ。
 
 頭上に、澄み切った青が広がっている。
 銀の粉をさっと刷毛で散りばめたかのようにきらきらと光る青空に、ソランジュは心から感謝した。
 そこに神がいるのなら、声高に叫ぼう。あなたの存在に感謝します、と。


+ + +



 あまりの寒さに身震いしたら、すぐさまジルが冬用の外套(コート)を羽織らせてくれた。遠慮しようとしたが、間髪を入れずに「俺は荷物抱えてるから邪魔なの」と返されてしまい、ありがたく柔らかな毛皮で縁取られたそれにくるまった。海風を含んだ外套は心なしかしっとりとしていたけれど、それでも十分に暖かい。
 呼吸するたびに白い息が零れて、それがひどく不思議だった。今まで暮らしていた場所は、暦の上では真冬でも雪がちらつくことなどない、温暖な地域だったからだ。
 荷物も無事に下ろし、船を降りた二人は港近くの宿を探して部屋を取った。宿の主人は二人を兄妹と見たらしい。ジルは少しだけ困ったように笑って代金を払い、部屋に入るなり「姫さんはそっち(ベッド)な」と言って寝椅子(ソファ)に横になってしまった。

「王都行きの馬車は、明日の朝から出てるってよ。それに乗って行こうな」
「はい。――まあ、ジル! このお部屋、窓から海が見れますよ」
「え? ……ああ、ほんとだ。それにしても、姫さんはほんっとに海が大好きなんだなぁ」

 窓を開け放つと、きりっと冷えた潮風が吹き込んでくる。それにも構わず上体を乗り出して海を眺めていると、通りを歩く少年がこちらに気づいて手を振ってきたので、嬉しくなって控えめに振り返した。後ろでジルが大きなくしゃみをしたので、慌てて窓を閉めてガラス越しに海を眺める。
 随分とぼんやりしていたらしい。ジルに肩を叩かれて、弾かれたように顔を上げた。

「姫さん、どした? そんなぼーっとして。疲れたんなら早く寝た方がいいぞ。王都まではまだしばらくかかるんだから。ここは島と違って冷えてるし、体壊したら大変だろ」
「ええ、そうですね。ですがまだ夕方ですし、眠れそうにありませぬ。ジルさえお疲れでなければ、ほんの少し、お話に付き合ってはくれませぬか?」
「そりゃ別にいーけど。だったらこっちきな。暖炉に火ぃ入れたから。あったかい飲みもんも淹れてやる」
「まあ……。なにからなにまで、申し訳ございませぬ」
「いーって。姫さんは座ってな」

 からからと笑ったジルは、暖炉の傍に鉄鍋を置き、ミルクを注いで温めていた。
 二人が取った宿は、宿の中では中くらいのところだった。築年数も値段も部屋数も、周りに立ち並ぶ宿の中では中くらいだ。ちょうど平均値。広いとは言えないが、けして不快なほど狭くはない部屋はほどよく整っている。大人二人がくっつけば余裕で眠れる寝台が一つに、大きめの寝椅子(ソファ)が一つ。暖炉もあるし、寛ぐ分には不自由しない。
 ソファに座って、もう一度窓の外を見た。今しがた渡ってきたばかりの海が見える。空は日が落ちかけて赤く色を変え始め、海もそれに応えるように色を変えていった。
 温かいマグを手渡し、ジルが隣に座った。一つに纏められた長い薔薇色の髪は、潮風を孕んで少しぱさついているようだ。

「んで? 姫さんの話って?」
「あ、ええと……。これからの道中、わたくしのことはどうか、クレシャナと呼んでほしいのです」
「クレシャナ? なんで」
「それは、その……、“姫さん”では、少々、気恥ずかしいのです。王都の方々ともなれば、流行物のお召し物に宝石も纏っておられるのでしょう。貴き血を持つ方々も大勢おられると聞き及んでおります。そのような中で姫などと呼ばれてしまっては、気後れしてしまいます」

 ヴェールを取り払った頭は少しだけ軽い。クレシャナは小さな手でマグをしっかりと握り締め、おずおずとジルを見上げた。
 ここに来るまでの道すがら何度も女性に間違えられたジルの整った顔立ちが、少し怪訝そうに歪んでいる。「姫さんは姫さんなのになぁ」顔立ちに似合わぬ砕けた口調で呟き、彼は何度か瞬きを繰り返して笑った。それは、クレシャナが王都行きを望んだときに見せたものと同じだった。

「りょーかい、分かった。でももう姫さんで慣れてっから、少しの粗相は見逃してくれな。あと二人っきりのときは姫さんで許してくれ。なんつーか、姫さんは俺の姫さんだから」
「ふふっ、はい。理由はよく分かりませぬが、ジルがそう仰るのならそうなのでしょう。よろしくお願いいたします」

 深々と下げた頭に手が乗せられる。短い若葉色の髪を掻き回され、うなじをくすぐる指先がくすぐったくて身を捩った。クレシャナの髪よりもずっと濃い緑色の双眸が、優しく細められてこちらを見ている。
 ジルの瞳の色はとても綺麗だ。瞳だけではない。薔薇色の髪も、人形のように整った顔立ちも、優しいその心も、すべてが美しいと思う。外見と所作があまりにもかけ離れているせいで、島のみんなは「神様が中身を入れ間違えたんだ」と笑っていたけれど。
 頬を撫でられて、クレシャナはゆっくりと目を閉じた。そのまま兄に対するような気安さで、そっと肩に頭を預ける。

「アスラナの……、王都の海は、もう少々青が濃いと思っておりました」
「あー……、言われてみれば、島の方が濃かったなぁ。まあでも、ここは王都の海じゃないしな」
「え? そうなのですか?」
「ああ。ここはまだフォ・マセパ地方だ。つか、王都には海ってなかったんじゃないか? 確か海側はリロウの森で近づけねぇだろ。だから海路で王都を目指すなら、このフォ・マセパの港かレジテアの港に入って、そっから陸路になる。こっからなら馬車を乗り継いで、四、五日ってとこか。……姫さん、そんなことも知らないで王都に行きたがってたのか」
「も、申し訳ございませぬ……」

 自分の無知加減に顔が火照る。羞恥で俯きながらも、クレシャナは頭の中にアスラナの地図を思い浮かべた。なんとかぼんやりとした形は浮かんできたが、埋まっていく地名は片手で事足りる。田舎の島国育ちの彼女にとって、王都の場所が大体このあたりだろうという程度にしか知識は必要なかった。今回の旅にジルがいてくれてよかったと心から思う。でなければ、きっと王都まで辿り着けやしなかっただろう。
 でも、そうか。なるほどと思い、クレシャナは赤々と色づいた海を見た。
 王都に気安く眺められる海はない。それは言い得て妙だと思う。小さく笑って、ジルの肩に頭を預けたまま欠伸を噛み殺す。
 船旅の疲れが出たのか、こんな時間だというのにとても眠い。「寝るならベッドに行けって」肩を揺すられたが、体が言うことをきかない。腰のあたりがじんわりと熱を持っていて、そのだるさが目を開けることすら億劫にさせた。
 なんとか目を開けて、ゆるりと持ち上げた手を飾る指輪に口づける。ある日、鳥が運んで来た不思議な指輪だ。それはクレシャナのお守りだった。

「なあ、姫さん。そんなに会いたい人なのか?」

 王都に来たのは、人に会うためだ。
 どうしても会いたくて、会わなければいけない気がして、無理を言って海を渡った。
 とろとろとした心地よいまどろみが、クレシャナの意識を誘う。暖炉の炎が爆ぜる音が気持ちよく、適度な熱が体を呑み込んでいく感覚に瞼が抗いがたい重さを持ち始めた。
 なんとか唇を動かしたが、声が出ていたかは分からない。ジルの困ったような顔だけが見えた。

「ええ、とても。多くは望みませぬ。ただの一度でよいのです。ただ一度、この目で見とうございます……」

 ただの一度でいい。遠くから見つめるだけでいい。

「でも、王都は広いぜ。姫さんの探してる人、すぐに見つかるのか?」
「大丈夫にございます。あのお方は、誰が探しても、すぐに……」

 最後まで音になっていたかは分からない。意識が途切れる寸前、クレシャナは一度だけ瞼を押し上げてみた。
 なにを見ようとしたのでもない。ただ、目を開けた。
 ジルが溜息を吐く。
 そこに、青があった。

 彼女の瞳は、海と共鳴する空のような色をしていた。




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