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 とにかく、鍵は開いた。今度こそ、と、シエラは黒い金属の上蓋を持ち上げた。蝶番が軋む。指一本分の隙間から、今まで感じたこともない量の瘴気がごぽりと音を立てて溢れ出てきた。

「うわっ!」

 赤黒い粘着性のある液体が膝にかかり、焼かれたような痛みに跳び上がる。手を放した瞬間に閉じるはずだった蓋は、どういうわけか勢いよく口を開け、瘴気の放出を許した。鈴の音が止む。エルクディアの声が飛ぶ。ライナが瞬時に結界を張り、ルチアが悲鳴を上げた。
 シエラはそれをどこか遠くの出来事のように聞いていた。目の前の箱は、すでに瘴気が覆い尽くしていて中身など見えない。そこにはただ闇があった。腐った血の色が、液体と化し、気体と化し、箱から生き物のように絶え間なく溢れ出てくる。
 ――これが呪詛か。
 何者かの悪意を感じた。奪われた命の嘆きが聞こえた。見えないはずの箱の中に、シエラは確かに臓器を見た。目を背けたくなるようなそれは、きっと清らかなる者の中で拍動していたものだったのだろう。
 じわじわと赤黒い液体が広がっていく。白骨に触れたそれはじゅううっと焼けた音を立て、やがて強烈な腐臭を放った。エルクディアに無理やり肘を掴まれて起こされる。
 危ないとでも怒鳴っているのだろうか。それとも、心配しているのだろうか。聞こえているのに、聞こえない。
 シエラの中にあったのは、穢された神域に対する深い悲しみだった。瘴気が辺りを埋め尽くす。声が反響する。まるで人魚の歌のように。恨みの声だ。嘆きの声だ。なんていたわしい。
 瘴気に呑まれた白骨が、徐々に形を取り戻していく。爛れた肉片が骨に纏わりつき、繋がり、組み合わされ、欠陥だらけのヒトの形をしたものや、人魚の形をしたものがあちこちで生まれた。

「ウ、ァ、ウォオオオォオオオオオオオッ!!」

 腐った皮膚を貼りつけただけの悪趣味な人形のようなそれが吠えた瞬間、膨れ上がった魔気が弾ける音を聞いてシエラの耳はすべての音を鮮明に捉えた。
 金の双眸が魔物を追う。瘴気によって魔物へと転化した哀れな亡骸の中には、かつての贄の姿もあるのだろう。
 眠らせておかねばならないはずの存在。胸の上で、ロザリオが静かに鳴く。

「シエラ! 今はひとまず呪詛の解除に務めて下さい! 魔物はわたしとエルクで防ぎます! 人型なら大丈夫ですよね!?」
「ああ、任せろ!」

 言うなりエルクディアが結界の外へと躍り出た。いつの間にか鞘から抜かれた長剣が、追い抜きざまに首を薙いで一つ落とす。ぼとりと嫌な音がしたが、頭をなくした体はそれでもエルクディアめがけて走り出した。それをリオンが細い剣で突き刺し、地面に縫い止める。
 呪詛の解呪を優先しろと言われたが、今にも結界を破らんとする魔物の量は増えるばかりだ。張り巡らせた神聖結界を掻い潜って礫が飛んでくる。膝に力を入れて箱に駆け寄ったが、倒れ込んだ人型の魔物によってそれは向こう側へと弾き飛ばされてしまった。勢いよく転がった箱が再び泉の中へ沈んでいく。

「行ってくる、ライナはルチアと蓼巫女を頼む!」
「一人で大丈夫ですか?」
「――分からない。だが、私にだって結界は張れる」

 大丈夫と言い切ったところで、どうせ余計に心配をかけるのは目に見えていたのであえてそう言った。いざとなったら頼む。背中を預けられる安心感が、そんな言葉をシエラに選ばせていた。
 この緊迫した中で、ライナは小さく笑った。嬉しそうに。どこか、泣き出しそうに。
 駆け出したシエラの足を止めたのは、鈍く響いた破壊音だった。
 泉の中央にあった祭壇が粉々に砕かれ、辺りに瓦礫を零す有り様に変容していた。魔物としての名前もない人型のそれは、あの石を拳一つで砕くのか。それでもエルクディアは怯えることなく、新緑の双眸をすっと細めて剣を構える。

「……こない汚したら、ルタンシーンさまに怒られてしまいますなぁ」

 リン。しゃん。シャン。
 そんな音がして、シエラのすぐ脇を花の香りが擦り抜けていく。「蓼巫女さん!?」ライナが叫ぶように呼んだが、その心配はすぐに杞憂だと分かった。

「お覚悟なさいまし! ――コラルス・ヴェルミオン!」

 重みで穂先が垂れた植物のように体をしならせ、蓼の巫女が身の丈ほどもある錫杖を、ヒトだったものに容赦なく振り下ろしたのだ。どこから出したのか分からない。珊瑚に朱を混ぜたような色合いの錫杖は、腐り爛れた魔物の皮膚など寄せ付けないような輝きを放っていた。
 駆け抜けた風はあまりにも早く、シエラには目で追うだけで精一杯だ。時間にすればほんの僅かだが、しかし命取りにもなりかねないその一瞬の間、シエラは呆然と立ち尽くしていた。
 金属の輪が数個つけられた錫杖の先。鈴とはまた違う澄んだ音が辺りに響く。エルクディアと擦れ違い、お互いの背の敵を叩き伏せる。沈み込んだ体を錫杖の下部で払い、地面を滑らせてエルクディアの側に掃ける。それを彼の長剣が斬り、どす黒い血を噴き上げて動きを止めた。
 蓼の巫女が動くたびに花が舞う。今度は錯覚でもなんでもなく、濃淡様々な桃色の花が舞っている。どこにも花は咲いていない。ここは海の中にある洞窟だ。それなのに、蓼の巫女が魔物の肩を踏みつけて空に跳び上がるたび、その爛れた喉に錫杖を振り下ろすたび、ぱっと花が散る。
 開いているのかどうか怪しかった細い瞳は、今やはっきりとその色が見て取れるまでに開かれている。目が開いたばかりの子猫のような青灰の双眸が、きらりと輝く。見事な背面宙返りで人魚だったものの胸を突き、蓼の巫女は妖艶に笑んだ。

「さぁさ、姫神さま。解呪を」

 歌うような声に促され、シエラは泉まで走った。そう長い距離ではない。だが襲ってくる魔物を祓いながらの道程は容易なものではない。なんとか泉に辿り着き、淵を掴んで腕を伸ばす。
 瘴気に染まった水はそれだけで痛みをもたらしたが、構う暇はない。なんとか箱を引き上げて再び上蓋を開けると、すっと体温が下がっていった。喉を掻き毟られるような不快感。
 目に見えて溢れ出る瘴気はもうなく、その中に入っているものがはっきりと見えた。どんな生物でも心臓の形は似通っている。リーディング村で、豚や鶏の心臓は何度か目にしたことがあった。――今目の前にあるのは、それとよく似たものだった。
 どうすればいいのか、シエラにはまったく分からない。分からないけれど、なぜだか体が勝手に動いていた。壊れ物でも掬い上げようとするかのように、恭しく両手が箱に詰められた心臓へと伸ばされる。抉り出された臓器に触れることに、嫌悪感はなかった。
 指先が触れ、人魚の嘆きが流れ込んでくる。
 そこに、青があった。
 美しく青い海。海面から顔を覗かせれば、流れていく白い雲と抜けるような青空が見えた。体に纏う水の感覚まで、まるでシエラが人魚になったかのように感じられる。

「……これは、お前の記憶か」

 一度引いた手を見下ろし、シエラは静かに呟いた。
 呪詛に使われた哀れな命。これほど清らかな魂が穢されたのだ。神域が穢れ、ルタンシーンの力が弱まるのも無理はない。
 ――可哀想に。
 憐みを持って、浄化を。

「うああっ!!」
「シエラ!?」

 今一度心臓に向けて伸ばそうとした指先は、箱の縁に触れた途端、強烈な痛みを覚えてシエラは悲鳴を上げた。エルクディア達の叫びが確かに聞こえたが、熱を持って痛む指先を抱えて、返事をするどころではなかった。
 痛みに涙が滲む。視界の端で光が揺れた。それはテュールの尾が放つ光なのか、それとも痛みがもたらす幻覚なのか、判断がつかない。
 震える指先は、爪が割れて血が滴っていた。潰れたかと思った。実際、相手は潰す気だったのだろう。指を抱えて睨み上げた先には、意地悪く笑う少年の姿があった。

「あっはは! ずーいぶんうるさいと思ったら、見つけたんだ? にしてもやっと? 遅かったねー。君達の守り神の心臓部なのに、笑っちゃう!」
「お前は……!!」

 忘れない。
 船の上で会った。海の底で遭った。
 ――忘れもしない、魔物の子。名をヒューといったか。



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