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 腕の中から、花弁が零れた。
 扉を閉めた拍子にぶつけでもしたのだろう。ひらひらと床に散っていったそれは、若い娘が好みそうなハート形をしていた。むせ返るような甘い薔薇の芳香に酔いそうになる。くらりとしたのは、寝不足によるものだったのかもしれないが。
 シルディは努力している。及第点をくれてやれるほどの出来ではないが、最も評価の低かった三男坊にしては、なんとか最低限のところで食いついてきている。褒めてはやれない。足りていないことの方が遥かに多いが、今はまだ、それでいい。
 経験の浅い若造に、完璧にできるわけがない。それはレンツォ自身にも言えることだ。だが、少なくともレンツォはシルディより経験があるし、年齢も、頭の回転だって自惚れではなく優れている。だから、今のシルディに足りない部分は自分が補ってやればいい。彼にはそれだけの価値があるのだから。
 自分の執務室へ戻って仕事をこなしていると、天を裂く稲光がやけに激しくなったのを感じた。窓から入り込んだ光が影を生み、室内に長く黒を伸ばしていく。棚の上に飾った薔薇の花が、壁に巨大な影を描いた。
 今この瞬間にも、このディルートでは負傷者が多く出ていることだろう。行方不明者、死者の報告も増える一方だ。神の後継者はなにをしているのだろう。ルチアは無事に彼らを水中洞窟へと案内できただろうか。
 大地を揺るがす轟きのあと、伸びた影を見て、ふとリオンを思い出した。漆黒の髪に、同色の瞳。帰って来いと言いつけておいたはずなのに、彼女はいつまで経っても戻ってこない。途中で事故にでも遭ったか。一瞬そう考えて、レンツォはすぐに首を振った。
 ありえない。あの女のことだ。無理矢理言いくるめてついていったのだろう。

「……馬鹿な女」

 確かにルチアは大事だ。
 だが、そうまでして守らなければならない存在ではない。
 幼子は皆等しく、愛おしいと思う。特に女児は。
 そう口にすると、誰もが異常性癖とみなして頬を引きつらせる。否定はしない。する気もない。レンツォはふっくらとした頬の感触を思い出して、小さく笑った。どこもかしこも柔らかく、小さな人形のような体に、高い声。無邪気な笑顔。
 愛くるしい。本当に。
 愛おしかった。なによりも。

「さて。もう一仕事しますかね」


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 色がついているわけでもないのに、淀んだ空気はどす黒く染まっているようで重苦しい。ねっとりと喉の奥に絡みつくような、嫌な気がした。魔気とはまた違う嫌悪感に、底なし沼に足を踏み入れたかのように全身が飲み込まれていく。
 一瞬にして意識が飛んだ。頭痛がしたわけでも、胸痛が走ったわけでもない。ただいきなり頭を殴られたような衝撃を受け、胃に目一杯泥を詰められたような感覚に襲われて目の前が暗くなったのだ。気がつけば蓼の巫女に抱きかかえられていて、一瞬なにが起きたのか分からなかった。
 ルチアが気つけ薬を飲ませてくれたのだという。役に立つと言っていたのはこういうことか。
 シエラは未だに重たい頭を首の上に乗せたまま、泉を睨んだ。こんなにも気が澱んでいるにも関わらず、エルクディアやリオン、ルチアはなにも感じていないらしい。一歩でも泉に近づけば胃がひっくり返りそうなほど気分が悪いのは、呪詛のせいだと蓼の巫女は言った。
 ルタンシーンの心臓部たる正常な神域が、呪詛によって穢された。そのせいで神気が澱み――腐ったと表現すれば分かりやすいだろうか――、神にまつわる者には強く影響が出てしまうらしい。
 ルチアが泉から引き揚げた黒い箱は、さほど大きくもなければ小さくもなかった。大きさこそちょっとした化粧道具を入れておく箱とよく似ているが、見た目の禍々しさが違う。濡れて光る箱は、石か金属でできているようだった。表面は分厚そうに見えるのに、ルチアが軽々と持ち上げているのを見るに、重さはなさそうだ。
 蓼の巫女が、袂から出した鈴生りの束をしゃんっと鳴らす。音が響くたびに、少しだけ呼吸が楽になった。ほっとしたように擦り寄ってくるテュールが愛おしい。
 あまりの禍々しさに、シエラは怖気づく自分を隠せなかった。解呪の仕方など分からない。分からないだけでも不安なのに、これほどのものが相手で上手くいくのだろうか。やるしかないのだと分かっていても、それでも不安は拭いきれない。
 蓼の巫女がそうっとシエラの手を握り、床に置かれた箱を視線で示して微笑んだ。

「姫神さま。わしには、神の力はございませんですー。けんど、神に仕えるこの身には、あなたさまの支えとなる力がありましょう。どうぞ姫神さま、この蓼巫女の力をお使い下さいまし」

 言うなり蓼の巫女はシエラの左手を持ち上げ、その手のひらに口づけた。
 その刹那、あたたかいものが手のひらを通して腕を伝い、心臓に届いて全身を駆け廻っていくのを感じた。体中の毛が逆立ち、血の流れる音を耳の奥で聞く。先日、神降ろしをした蓼の巫女に――正しくはルタンシーンだが――に口づけられたときにも、似たような感覚があった。
 自分ではない他のなにかが染み込んでくる。それはおぞましいものではなく、歓迎すべきなのだろうが、少しだけ怖い。
 ぬくもりが離れたかと思えば蓼の巫女が優雅に片膝をつき、一際大きく鈴を鳴らして舞い始めた。しゃん、しゃん、しゃん。爪先が白骨を踏んで砕き、乾いた音を立てて跳び上がる。片足で着地して深く屈み、もう片方の足を大きく伸ばしてぐるりと回って円を描いた。蹴り飛ばされる白骨、響く鈴の音。
 跳んで、屈んで、回って、揺れて。歌も曲もないのに、それは一つの流れの中に収まっていた。蓼の巫女の周りに薄桃色の花弁でも舞っているかのように見えたのだが、それは彼女の背に揺れる半透明の帯がそう見えただけらしい。当然だ。ここには花など咲いてはいない。
 軽やかな舞に目が奪われていたが、ライナに手を引かれてはっとする。見惚れている場合ではない。ディルートを救うためには、呪詛を解かなければならないのだ。
 箱の手前に膝をついてみたが、先ほどまでとは違って体の重みは少しばかり軽くなっていた。これが蓼の巫女の言う、「支えとなる力」の影響なのだろうか。

「開ければいいのか……?」

 ライナが頷く。

「ええ。中には呪詛の媒介となるものが入っていますから、それを破壊――というよりは浄化でしょうか。とにかく、祓魔と同じ感覚で大丈夫ですよ。気を静めて、聖水をかけて、清めの言葉を。ここは海ですから、水霊に祈念しましょう」
「二人とも、体調は大丈夫なのか?」
「ああ。……蓼巫女の舞のおかげだろうか。特に不調はない」
「エルクはルチアを見ていてくれますか? なにがあるか分かりませんので。テュールもルチアの傍に」

 ルチアがエルクディアを見上げ、その足元にそっと寄り添った。新緑の瞳が剣呑に細められることはなく、彼はただ静かに「分かった」と頷き、少女には一瞥もくれない。小さな竜は、少女の頭の上にぴたりと張りついた。
 箱の蓋に、そっと手をかける。表面は冷たく、触るとぴりりと痺れのようなものが走った。開けようとして、シエラは途端に困った。鍵穴があるが、肝心の鍵がないのだ。丈夫そうな箱は、地面に叩きつけたくらいではびくともしなさそうだ。
 半ば絶望的な気分になりながら鍵穴にそっと触れてみると、指を吸い込まれるような感覚と共にガチャリと音がして鍵が開く。ふわり。日頃は表に出ない神気が漏れ出たのを自覚した。


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