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「大丈夫ですか?」
「あれ、レンツォ……。あっ、ごめん! 僕、寝ちゃってた!?」
「いいえ。寝ていると言うよりは、意識が飛んでいると言った方が正しいかと。倒れられては迷惑です。ほどほどにして休みなさい」
「う……。ごめん。でも、まだ平気。それよりも、シエラちゃん達は大丈夫かな。……天気、ますます悪くなっちゃったけど」
「ルチアがおりますから、大事ないでしょう。それにしても、雷まで鳴り出すとは……。なにかやらかしたんですかね」

 シエラ達を送り出してから、天候は悪化の一途を辿るばかりだった。雨は降り止む気配を見せず、空を裂く雷光は激しさを増していく。
 城中の人間が疲弊しているのを感じながら、どうして一人だけ休むことができようか。ただでさえ、シルディに回された仕事の量はレンツォに比べれば少ない。自分に力が足りないせいで、周りに負担を強いている。それを分かっているからこそ、「それじゃあお言葉に甘えて」と言ってとろけるような肌触りの敷布(シーツ)に潜り込むことなど、できるわけもなかった。
 微笑んだ拍子に頭がくらりとしたが、レンツォは呆れたように目を眇めただけでなにも言ってこなかった。代わりに書類の山から無造作に束を掴んで、すぐ隣の執務机で処理を始める。部屋に持ち帰る時間すら惜しいようだ。

「この雨で、ディルートは完全に孤立しました。今後、同様の事象が起こった際にどうするか、その対策が必要となってきます。当分は休んでいる暇などありませんよ」
「……うん。分かってる。現状、ロルケイト兵団の船なら出そうと思えば出せるって聞いた。かなり危険なようだけど、一隻試したところでは無事に往復できたって。だから最悪、城に残ってる貴族達はそれでテティスに避難してもらおうかなって考えているんだけど、どう思う?」

 書類に目を通していたレンツォがぴたりと動きを止め、眼鏡をずらしてシルディを見た。あまりにぽかんとした視線を受けて、予想外の反応に思わずたじろぐ。

「え、な、なに……? 僕、なにかまずいこと言った?」
「いえ……。あなたにしては珍しい発言だと思っただけです。『貴族も平民も、平等に』と言い出すのではないかと思っていたのですが」
「僕だってそう言いたいけど。でも、今回はそうも言ってられないよ。だって、ディルートの人間をみーんな外に出すことはできないもの。それだけの船がない。それにこの間の一件で、政に関わる人間がごっそり減ったでしょう? ……この国が、紙の上の政治で動いてるとは言わないよ。でも、その紙一枚で救えるものがあるなら、僕はその人達を守らないといけない」

 睡眠が足りていない頭では、自分がなにを言っているのかもよく分からない。はたしてこれは、きちんと意味をなす言葉になっているのだろうか。

「……でも、本当はね、みんな守りたいんだ。それって、わがままなのかなぁ」

 誰もが善人だなどとは思わない。だが、それがディルートの――ホーリーの民であるのなら、できうる限り守りたいと、そう思う。絹の寝着で休む貴族だろうが、ボロ布一枚で眠る平民だろうが、皆一様に等しく。甘い考えだというのは理解している。叶いっこない理想論だとも自覚している。
 それでも、どうしても願ってやまないのだ。

 海の底に潜った際、クレメンティアが張り巡らせた結界を思い出した。水を弾き、空気を蓄えた不思議な気泡の結界。あれを応用すれば、水路の決壊を防ぐことができるのではないか。
 すぐさまディルートの神官に連絡を取って部屋に呼びつけてみたが、答えは「否」だった。穢れに呑まれたルタンシーンの気が強すぎて、精霊達が完全に怯えてしまっているのだという。そのため、ディルートの聖職者達では法術を駆使することができず、対処の仕様がないと返されてしまった。
 申し訳なさそうに帰っていく神官の後姿を見送って机に突っ伏すと、鼻先を甘い香りが掠めていった。僅かに首を巡らせて視線だけで香りを追うと、レンツォが大きな薔薇の花束を抱えて立っていた。

「レンツォ? なにそれ、どうしたの?」
「あなたが神官と話し込んでいる間に、侍女が運んできましたよ。『少しでも我らが王子殿下のお慰めになれば』だそうです。ま、大方、雨にやられる前に刈り取ったんでしょうが」
「またそんなこと言って……。それにしても、本当に綺麗。だけど、今のこの机には飾れないなあ。向こうの棚の上にでも飾ろうか」

 ディルートガラスを用いた花瓶なら、奥の棚に仕舞ってある。それを取りに行くレンツォの姿をぼんやりと見つめていると、シルディはあることに気がついた。

「レンツォって、薔薇みたいだね」
「はい?」
「髪の色もよく似てる。真っ赤じゃなくて、黒でもなくて、ふかーい紅色。綺麗でいい匂いがするのに、下手に触ると棘で怪我しちゃうところなんか特に」
「ですが王子、薔薇に喩えられるのは大抵女性ですよ。一応、褒め言葉として受け取っておきますが」

 戻ってきたレンツォは書類を無造作に端に寄せ、執務机の上に細身の一輪挿しを置いた。到底花束は入りきらない。「あれ?」見上げた先のレンツォが珍しく穏やかな笑みを浮かべて薔薇を見つめているものだから、シルディはなにを言おうとしていたのか、すっかり忘れてしまった。
 何度か見たことのあるけれど、こういったレンツォの笑顔はとても珍しい。前に見たのは確か、シルディがディルートの遠泳大会で準優勝した日の晩だ。「あなた馬鹿ですか。どうせなら優勝しなさい、情けない」そんな風に詰られてしょぼくれたけれど、その夜、レンツォは飾られたトロフィーを見つめて今と同じように微笑んでいた。
 レンツォは花束の中から、三本を選んで一輪挿しにそっと飾った。ふわり。甘い香りが疲れた心を癒していく。

「――これを。私からあなたに」
「え? なんで白?」

 純粋に零れた疑問だった。またしてもレンツォが楽しそうに笑う。
 一輪挿しに飾られたのは、白い薔薇が二本と、まだ固く閉ざされた蕾のままの赤い薔薇が一本だ。花束には咲き誇る赤や黄色、桃色の薔薇がたくさんあるというのに、どうして彼はこの三本を選んだのだろう。
 薔薇と言えば赤。そんなイメージがシルディにはあった。

「レンツォっていったら、そっちの赤い薔薇を選ぶかなって思ってたのに」
「いいえ。私からあなたに贈るのなら、白がちょうどいいんですよ。それに、赤は間に合っているでしょう」

 花束で顎を掬われて、シルディはレンツォの顔をまじまじと見つめた。知的な顔に零れる、濃い紅の薔薇色の髪。綺麗なくせに、棘がある。そうだ。その茨に、いつも守られてきた。

「もう、レンツォったら」

 咲き誇る白い薔薇が枯れる前に、あるいは赤い薔薇の蕾が咲く前に、この雨は止むだろうか。止んでくれればいい。止まない雨はない。――だから、大丈夫。シルディの目尻に口づけを落とし、レンツォは部屋を出ていった。
 一人残された部屋で、明滅する空を見つめる。
 知らないことが多すぎる。知らなかったでは済まされないことの方が、きっと多い。
 神の後継者がなぜ人の子であるのか、知る者は誰もいない。神々と、それに通ずる者にしか分からないのだろう。なぜ神は人の子を選んだのだろう。人では神の力に耐え切れない。そんなことは、誰が考えても分かるだろうに。
 荒れ狂う空と海は、神の怒りの象徴か。それを治めに行ったのが人の子だ。その天災から国を守るべく働くのも、人の子だ。
 シルディは癖の強く出た金茶の髪に手を差し込み、頭を抱えて小さく笑った。鼻先で薔薇が香る。


 確かに、人の子は神には敵わない。
 けれど、どうして人の子が神に劣っていると言えようか。




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