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 神となるシエラ自身が神の在り方に疑念を抱くことは、はたして正しいのだろうか。一種の恐怖にも似た感情が、静かに胸に根を下ろしていく。
 蓼の巫女はエルクディアの首に回した腕に少しばかり力を入れ、掠れた声で、歌うように言った。

「ですねですねー。けんど姫神さま。なにゆえ、神が勝手をしてはならんのでしょうか。それはあまりにも、人の勝手ではありやしませんですやろか。人の都合で動けと言うは、高慢が過ぎるとわしは思いますですー」

 がつんと頭を殴られたような感覚を覚えて、エルクディアの歩調が僅かに乱れる。ほんの一瞬リオンからの試すような視線を感じたが、それもすぐに消え去った。
 シエラは整った眉をこれでもかと顰めてしわを刻み、なにを言うべきか迷っている様子だった。しばらく誰も口を聞かぬまま、時が流れた。鍾乳石から雫が垂れる音と、道が分かれるたびに先を示す蓼の巫女の声が静かに響く。
 時折、蓼の巫女の唇から苦しげな吐息が漏れるのを感じていたエルクディアは、何度か休むかを聞いてみたが、彼女が頑として首を縦には振らなかった。だが、進めば進むほど顔色は荒くなっていく。
 それはシエラも同じらしく、どこか気分が悪そうなそぶりを見せることが増えてきた。魔気でも感じているのかと思ったが、魔気ではないと言う。
 目の前に、大きな岩壁が現れた。右側の下の方に、エルクディアでも屈めば十分に通り抜けることができそうな穴が開いている。蓼の巫女は震える手でその穴を示した。

「さて、もうじきですけんど、シエラさま。どうぞご注意を。ここから先は、呪詛に犯されたルタンシーンさまの心臓部。シエラさまには、少々おつらいかもしれませんゆえ。……まあ、こんな顔色のわしが言えることやないんですけどもー」
「つまり、この先にライナ達がいるということですか?」
「はいな。そこをくぐった先に。こちらとあちらでは相当差があると思いますんで、シエラさま、ほんに気をつけてくださいですー」

 蓼の巫女をリオンに任せ、エルクディアが先に進もうとしたところで、リオンに肩を掴まれた。半ば強引にエルクディアを押しのけ、「安全は私が確かめますから」と言ってリオンが先に穴をくぐり抜ける。しばらくすると「リオン!」と嬉しそうなルチアの声が聞こえてきて、向こう側には確かにライナ達がいるのだと知った。
 すぐさま蓼の巫女をくぐらせ、次にシエラをくぐらせる。だが、シエラは穴の途中で足を止めてしまった。苦しげに呻くその様子に、血の気が引いていく。リオンと蓼の巫女だろうか。細い腕によって引き摺られていったシエラを慌てて追いかければ、彼女の顔はすっかり青褪めてしまっていた。

「おい、シエラ! どうした、大丈夫か!?」

 まるで強い魔気を感じたときのような状態に、エルクディアの胸に不安がよぎる。リオンの足元に纏わりついていたルチアが、「シエラもなの?」と零し、リオンとエルクディアの注意を奪った。
 テュールがルチアの頭の上に腹這いになり、心配そうにシエラを見つめている。

「“も”ってことは、ライナもか?」
「うん。クレメンティアもね、この部屋に入ると、すーっごく気分が悪くなっちゃったんだって。だからいま、向こうで休んでる。あ、でもね、気分が悪いときはこーすればだいじょーぶなんだよぅ!」

 ぐったりと蓼の巫女の胸にもたれかかるシエラは、もうほとんど気を失っているに近かった。かろうじて座っている状態で、蓼の巫女の支えがなければ、その場に倒れ込んでいただろう。そんなシエラの蒼い髪を払いのけ、ルチアはそっと顔を近づけた。
 なにをしようとしているのか、予感めいたものがあった。だが、止める間もなく、小さな唇がシエラのそれに重ねられる。舌先で無理やりこじ開け、大人のそれのように首を抱いて深く口づけたルチアは、エルクディアが怒鳴ると同時に唇を離した。こくり。シエラの喉が僅かに上下する。

「お前っ、なにをやって……!」
「なにって、おくすりだよ? 毒だけど、いーっぱい薄めたら気つけ薬になるの。さっきクレメンティアで試したら、ちょっとマシになったってゆってたもん」
「エルクディア様。戻ってからしっかり言って聞かせますので、今はご容赦いただけますかしら」
「……頼みます」

 シエラの苦しげな呼吸が落ち着いていなければ、小さな体を長剣で貫いていたかもしれなかった。目の前を赤く塗り替えた怒りは、未だにエルクディアの指先を震わせている。
 悪気はない。それは分かる。だが、悪気がなければなにをしても許されるのか。子供であれば、なにをしてもいいのか。口づけたことへの怒りではない。ルチアは言った。「試した」と。なんの確証もなく、ライナを危険に晒しかけたのだと、悪気なくそう言った。結果、彼女達が無事だったとはいえ、それでもルチアの持つ力と、ルチアの感覚が恐ろしい。
 少女自ら言っていたではないか。自分はバケモノだ、と。その通りだ。どうしてそれが、シエラの傍にいるのだろう。
 目を覚ましたシエラはまだ少し頭が重たそうだったが、気分は幾分かマシになったらしい。奥で休んでいたライナとも無事に合流し、エルクディアは改めて今いる場所をじっくりと観察した。
 広さはあまりないが、天井はそれなりに高く、エルクディア二人分はありそうだ。ぼこぼこと連なった鍾乳石からは、一定間隔で雫が落ちてくる。足元には無数の骨が散らばり、動くたびにぼきりと嫌な音を立てて崩れていく。今抜けてきた穴のすぐ脇に、泉があった。耳を澄ませば水の湧き出す音が聞こえるが、あまりに静かなそれは滴る雫の音にさえ負けてしまいそうだった。
 泉の中央には祭壇があり、よく目を凝らせば、そこには人魚の彫り物が施されていた。
 シエラとライナは、頑なに首を振って泉には近づきたがらなかった。蓼の巫女が、青褪めた顔で泉を覗く。リン。響いた鈴の音は、蓼の巫女のものか、それともルチアのものか。

「見事なまでの呪詛にございますですー。これは、神気を宿すお二人様にはおつらいでしょうて」

 つられて覗き込んだ泉の中に沈んでいたのは、小さな黒い箱だった。


+ + +



 空が明滅している。
 世界に亀裂が生じるような音が、絶え間なくずっと響いている。
 女が泣き叫んでいるような、長く尾を引く音が幾重にも重なって、外の道を通り抜けていくのを感じた。風の音が変わり、大気が弛緩する。そして、空が割れた。
 目の前の書類がもう何枚目になるのか分からない。西の方で水路が氾濫したと情報が入ったと思えば、それから毎日、いや、半日も経たずに次々と報告が舞い込んでくる。正直に言えば、追いつかない。どれだけ兵士を派遣しても、どれだけ土嚢をこさえても、海に囲まれ、街中に水路を巡らせたディルート全域を水害から救うことは難しい。
 こうなることを予期しなかったわけではない。堤防も、家の造りも、それ相応の対策はなされていたはずだった。今回の天候は、シルディ達の予想を遥かに超えたものだ。
 ただの自然現象ではない。神が起こしたものだから仕方ない。そう言ってしまえばそれまでだが、領主としてその言い訳は許されない。
 何度目か分からぬ稲光が窓から差し込み、昼間だというのに薄暗い室内を真っ白に染め変えた。
 ペンを握る手に力が入らない。今までどれほど周りに甘えていたのかを実感し、己の不甲斐なさにシルディは歯噛みした。助けを求める声は止まない。海からも、陸からも。


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