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 ライナの悲鳴が聞こえてから、シエラは気が気じゃなかった。暗い洞窟の中、穴を覗いて向こう側を見るが人影はない。なにがあったのだろう。大切な友人が壊れる様を見るのはもう嫌だ。
 すぐさま死体を見つけたとルチアが報告してきたが、そんな話を聞いて落ち着いていられるはずもない。そわそわと忙しなく足踏みをするシエラの後ろで、エルクディアも難しい顔をしている。
 しばらく音が遠のいていたかと思えば、再びルチアの声が響いてきた。

「シエラー! あのね、なんか箱を見つけたの! 先にね、クレメンティアが戻るから! それでね、ルチアが持っていくから、ちょっと待ってて!」

 どういうことだと聞き返そうとしたシエラの肩に、そっと手が触れた。優しく押しのけられる。エルクディアかと思って振り返った先にいたのは、青白い顔をした蓼の巫女だった。

「その必要はありませんですー。わしらも今から、そっちへ向かいますんでー」

 脂汗の滲む額を拭い、蓼の巫女は振り向いてにこりと笑った。シエラも、エルクディアも言葉を失う。リオンが自分達が来た道を確認するように視線を巡らせ、「信じられない」と零した。
 ゆったりとした深藍の袴の裾は濡れているが、上衣や桃色の髪は乾いたままだ。今の今まで、彼女の気配をまったく感じなかった。人間の気配に疎いシエラはまだしも、エルクディアとリオンが気づかないわけがない。呆然とするシエラの前で膝を折り、蓼の巫女は深々と頭を下げた。

「先日はご挨拶できませんで、申し訳ございませんでしたですー」
「蓼巫女、どうしてここへ……」
「ここはルタンシーンさまの秘めたる場。わしが来んで、どなたさまが来られるんですー?」
「でもあなた、どうやってここまで来たの? 海の中の入り口から入ってきた様子ではないようだけれど」
「わしはルタンシーン神殿にて、ルタンシーンさまに仕える巫女にございます。そしてここは、ルタンシーンさまの心臓部とも言える場所。どなたさまも知りえぬ道を、わしは存じておりますですよ」

 そう言って蓼の巫女は笑ったが、その顔色は今にも倒れそうなほど悪い。喘ぐような呼吸といい、立っていることすら難しそうだ。そんな体で神殿を抜けてきたのか。どうしてそんな無茶をするのだろう。
 ふらつく蓼の巫女に肩を貸してやると、彼女は蚊の鳴くような声でなにかを言った。おそらく礼だったのだろうが、共通語ではなかったためにシエラには分からない。

「それにしても、『そっちへ向かう』とはどういうことでしょうか。道をご存知なんですか?」
「はいな、騎士長さま。この蓼巫女にお任せあれ。この洞窟内の道は、まるっと把握しとりますですー。わしがあちらまでご案内、を、ッ……」
「蓼巫女! 無理をするな。――エルク、背負ってやってくれないか」
「ああ、分かった。蓼巫女殿、どうぞこちらに」
「……あいやぁ。これはまことに、あいすみませんですなぁ」

 転びかけた蓼の巫女を支え、エルクディアへと彼女を預けた。その背におぶさり、蓼の巫女が道順を示していく。時折苦しげに呻きながらも、彼女はこの洞窟の説明をやめようとはしなかった。どれだけ休めと言いきかせても、彼女は頑として口を噤まない。

「ここはかつて、贄に与えられた洗礼の場やったんですー。身を清め、ルタンシーンさまへとすべてを捧げる場。本来、なによりも、尊い場」

 静かな声は暗闇の中、吸い込まれるように消えていった。雫が落ちて反響する音に紛れ、蓼の巫女の声が滑っていく。
 奥へ、奥へ。枝分かれした道を迷うことなく指し示し、彼女は青白い顔に笑みを浮かべる。小さく聞こえる鈴の音は、彼女の巫女服の袂から聞こえているのだろう。
 時折躓きそうになってはリオンに支えられながら、シエラは洞窟の奥へと進んだ。
 蓼の巫女と視線が絡む。うっすらと開いた青灰色の瞳には涙が滲んでいたが、弱々しいだけではなかった。確かに垣間見える決意の強さ。なにをもってそう感じたのか分からないけれど、それでも、伝わってくるなにかがある。

「この地は、かつて、アビジュメリナと通じておりました」
「アビシュメリナと? そんなにも広いのか、ここは」
「……それってつまり、この洞窟も元々は地上にあったものだということかしら?」
「はいな。リオンさまの仰るとーり。この地は遥か昔、海の底ではなく、海の上にありましたんですー。……それが、一夜にして、海底に消えました」

 冷えた雫が、シエラの頬に落ちてきた。

「ルタンシーンさまのお怒りを買い、あの町と共に沈んだんですー。選ばれた贄が気に入らなんだのか、なんなのか、分かりやしませんのですけどねー。けんど、確かなことが一つ。この場所は、ルタンシーンさまにとって、最も大切な場所なんですー」
「……一晩で町を沈めるような神をどうして崇めるんだ? 守るどころか、町を滅ぼしたのに」
「偉大なる海神(わだつみ)さまのお望みとあらば、いかようにも。沈んだ町は神のご意志。人の身に推し量れるものではありやせんですからー」
「蓼巫女さん、後継者様にとっては耳の痛いお話ね」
「……いい。聞く。……神が望めば、お前達はどんな不幸も受け入れるのか」

 町が沈む。
 それは、そこにいた人々の生活が奪われたということだ。
 命が消えた。一夜にして、理不尽にも奪われた。
 どうしてそれを受け入れることができるのだろう。どうして、そんなことをした神を崇めることができるのだろう。
 分からない。ぎゅっとランプを握り締めたシエラを、エルクディアが気遣うように見た。首に下げたホーリーブルーの首飾りが、鎖骨の上で転がるのを感じる。

「シエラさまは、アビシュメリナの伝説をご存知ない?」
「……なにも。今、お前に聞いたような程度のことしか知らない」
「そんならすこぉし、ルタンシーンさまについてお話しときましょか。ついこないだまで見ておられた、アビシュメリナの伝説をば。なぁに、すぐに済みますですー。クレメンティアさま方のとこへ着くまでに終わります。……少しだけ、お付き合い願います」

 リン。
 蓼の巫女の袂から、鈴の音が落ちる。エルクディアが彼女を背負い直したからだ。
 何度か咳払いをして語り始めた蓼の巫女の声は、その鈴のように透き通っていた。暗闇をどこまでも照らす月明かりのようだ。
 袖が捲れて剥き出しになった細い腕がエルクディアの首に絡んでいるのを見るとなぜか胸が騒いだが、蓼の巫女の静かな声が意識を引き戻す。
 その双眸にまっすぐに見つめられると、体の中が凍りつくような気がして怖くなった。呼気が冷える。自分が自分ではなくなっていくような不安に、シエラは強く唇を噛む。
 揺らいだ声に、耳を傾けた。

「その町は――、」


 ――その町は、一夜にして海の底に消えた。
 我らは、神と共に眠る。
 



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