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 一層強さを増した光に、目が奪われる。洞窟内の天井から床に至るまで、すべてが光で覆い尽くされていた。あまりにも美しい光景に、言葉が出ない。まっすぐに続く洞窟の先まで、光の道が続いている。
 光石だろうか。そう思ったライナの目の前を、淡い光がふわりと泳いでいった。
 光が落ちてくる。雪のようなそれにエルガートの冬を思い出し、ライナはそっと手のひらで受けた。
 途端に、むず痒い感触が肌を這う。

「っ、きゃあああああああああ!」
「クレメンティア!? どうしたの!?」

 慌てたルチアが駆け寄ってきて、すぐさまそれをシエラとエルクディアの声が追いかけてきた。
 反射的に手を払ったせいか、手のひらに乗っていたそれは、迷惑そうにふよふよと飛んでどこかへ行った。その様子を見て、ルチアがぽかんと口を開ける。

「……虫?」

 手に刺されたような跡はない。毒虫ではないようだが、脚の多い羽虫は苦手だ。思わず叫んでしまったが、あまりの情けなさに、鳥肌の立つ腕で頭を抱えたくなった。
 向こうでは、焦りを多分に含んだシエラの声が、何度もライナを呼び続けている。

「おい、おいライナ! どうした、無事か!? ライナ!」
「――すみません! ただの光虫でした! びっくりしてしまって……!」
「む、虫?」
「なんだ、びっくりさせるなよ。怪我はないんだな?」
「ええ、大丈夫です。毒性はないようですが、でもなにか、変な臭いが……」

 エルクディアの問いかけに応えながら、ライナは犬のように鼻をひくつかせた。淡い光を放つ光虫が通路を照らす。その幻想的な光景とは不似合の、なにかが腐ったような臭いが鼻を突く。
 ゆっくりと歩を進めていくと、ライナ達を避けるように光虫が飛んでいく。一歩進むたびに光が割れた。揺れる光の向こう、ぽっかりと空いた暗闇に目を凝らしてみるが、なにも見えない。ライナの意を汲み取ってか、テュールが闇の中を駆けた。強く発光する尾のクラスターが、腐臭の元を照らし出す。

「ひっ……!」

 今度は、悲鳴すら上げられなかった。
 「それ」を見た瞬間、全身に鳥肌が立ち、腰が抜ける。洞窟内の空気が、より一層冷たく感じた。ぺたりと尻餅をついたライナの横を、ルチアが平然と通り過ぎて行く。止めたいと強く思うのに、声が出ない。
 愛らしい少女はテュールを抱いて屈み込み、クラスターの明かりを「それ」に近づけて、まじまじと検分してみせた。

「ねぇ、この子、内臓どこいったの?」

 細い指が示す先の、腐った肉と、飛び出た骨。腹を裂かれ、血肉が辺りに飛び散らせた「それ」は、無残な殺され方をした人魚の死骸だった。美しかったのだろう顔には蛆がたかり、半分は既に肉が腐り落ちて骨が見えている。神経が繋がったままの萎びた眼球が、ぽかりと空いた眼窩から垂れ下がっていた。
 大きく裂かれた腹部を直視することなど、ライナにはできそうにもなかった。けれどルチアは問うてくる。

「なんで内臓がないの? 変だよ、これ」

 嘔気を抑えながら涙目で辺りを見てみたが、ぶちまけられた内臓のようなものは見えない。そもそも人魚にどんな臓器があるのか知らないが、傷から僅かに零れた紐のようなものは腸の一部に見えた。腸があるのなら、それ以外にも臓器があると考えてもおかしくはないだろう。
 壁や床にこびりついた黒い染みは、人魚の血だろうか。これが鮮血であれば、きっと耐えられなかった。
 彼女は一体、なにに殺されたのだろう。
 ただの獣か、魔物か、それとも――人間か。
 あまりに残虐な殺し方だ。腰が抜けて動けないライナとは対照的に、ルチアは臆することなく平然とそこにいる。そのことが不思議でならなく、同時にとても恐ろしかった。

「どーぶつに食べられたんなら、こんなにきれーにお腹切れてないよ。腐ってるけど、でも、まっすぐに切れてるの分かるもん。これ、ぜぇったい変!」
「ルチア、どうした?」
「あのね、シエラ! なんかね、人魚の死体があるんだけど、なぁんか変なの! ルチア見てくる!」
「は? おい、ルチア!」

 シエラの静止も聞かずに、ルチアは跳ねるように奥へと進んでいった。取り残されそうになって、ライナも慌てて後を追う。声の響く洞窟だ。大声を出せば、シエラやエルクディアと会話することも可能だが、あまり離れたくはない。それに、もしも危険な生物がいた場合、ライナにはルチアを守りきれる自信がなかった。魔物であれば結界で防ぐことが可能だが、それ以外を相手にするのなら、ライナはただのか弱い女の子でしかない。
 幸いにも曲がり角はなく、道は徐々に細く、天井が低くなっていく。ルチアを追って、腰を半分ほど折り曲げて通路を抜けると、ぐっと天井が高くなった。高い場所から水の落ちる音が聞こえる。幾重にも反響したそれは、澄み切っていてとても美しい。
 だが、目の前の光景を見てしまうと、響く水音は恐怖を煽る要因でしかなかった。

「わ、骨ばぁっかり!」

 はしゃいだ声を上げて、ルチアはおびただしい数の白骨を踏みつけていく。大人が五人ほど並んで手を伸ばしたほどの広さを持つ空間の奥には、小さな泉があった。泉の中心に、精巧な彫り物が施された祭壇がある。空間を埋め尽くすように白骨が散らばるこの場所が、なんらかの儀式の間であったことは一目瞭然だった。
 胃の底から込み上げてくるものにライナは耐え切れず、口を押さえて後ずさった。――なんだ、ここは。恐怖を感じるのは、辺りを埋める白骨のせいだけではない。それ以外のなにかが、ライナの内側に侵入し、恐怖を煽ってくる。
 臆することなく泉の中を覗き込んだルチアが、淵に膝をついたかと思うと、おもむろに水に手を浸した。ぎょっとして止めようとするも、言葉の代わりに胃液がせり上がってきたせいで、口を噤むしかなかった。
 恐れを知らないことが、こんなにも恐ろしいだなんて。
 ルチアの腕が肘まで浸かり、ゆっくりと引き上げられる。小さな両手に包み込まれた小箱が泉から完全に顔を出した瞬間、ライナはついに我慢できずに胃液を吐いた。
 一瞬で脂汗が滲み、末端の感覚が消え失せる。荒ぶる心臓は誰のものか。震える歯の根は。頭の内側から直接殴打されるような、この感覚はなんだ。
 絶対的な恐怖がそこにあった。「それ」はすべてを狂わせる。
 震えるライナを見て、小箱を持ったルチアが不思議そうに首を傾げた。

「クレメンティア、どうしたの?」
「それ……っ、ちかづけ、ないで、ください……!」
「え、この箱? これがどーかしたの?」
 
 手の中の箱とライナを見比べて、ルチアはぽかんと口を開けた。蹲り、今にも倒れそうなライナの様子から、ただ事ではないと悟ったのだろう。きゅっと引き結ばれた唇が、少女の決意を物語った。

「先に戻ってて、クレメンティア。クレメンティアがそんなことになっちゃうってことは、この箱、なんかあるんだよね? だったらルチアがシエラのとこに持って行ってあげる。離れてたら、クレメンティアもしんどくないよね?」
「で、でもっ……」

 確かに、あの小箱は普通の箱ではない。
 目に見えないなにかをはっきりと感じ取ることができる。魔気ではないが、とてつもなく禍々しいものだ。体の内側から黒く塗りつぶされるような感覚は、「穢れ」という言葉がやけに似合う。
 しかしそんなものを、幼い少女に持たせて歩くことは気が進まなかった。なんとか立ち上がろうとするライナから距離を取って、ルチアが声を張り上げる。

「シエラー! あのね、なんか箱を見つけたの! 先にね、クレメンティアが戻るから! それでね、ルチアが持っていくから、ちょっと待ってて!」
「その必要はありませんですー。わしらも今から、そっちへ向かいますんでー」
「えっ……?」
「あれ? シエラじゃないの……?」

 わんと響いたルチアの声に遠くから返ってきたのは、予想外の人物のものだった。


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