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「この洞窟、入り口が数ヶ所あるんだけど……。どこから入れるかは、行ってみないと分からない。波の具合で場所が分からなくなったりもするから、専門家泣かせなんだよね。それに、誰も近寄りたがらないせいで、案内できる人が極端に少ないんだ」
「誰も近寄りたがらないって……、なぜだ?」
「シエラちゃんは、迷信とか信じる方?」

 困ったように眉を下げ、シルディは語った。
 かつて、ルタンシーンの怒りを買った贄の話。
 一人の男が、贄に選ばれた。けれど男には、愛する妻がいた。子はもうすぐ生まれる。男は死ぬわけにはいかなかった。

「贄に選ばれたその人は、必死で逃げた。洞窟を見つけて、そこに家族で隠れた。でもそこは、ルタンシーンの眠る場所だった。贄を迎え入れたルタンシーンは、家族全員を喰らったんだって。それ以来、そこは贄を捧げる場所になった。だから、誰も行きたがらないんだ。ルタンシーンの贄になって、帰ってこられないって考えられてるから」
「……そんなところへ、貴方は行っていたんですか」
「馬鹿ですからね。私が止めても聞く耳一つ持ちやしません」
「うっ……、で、でも、ちゃんと帰ってきたでしょう!?」

 座りが悪そうにシルディは体を縮こまらせ、「とにかく」と咳払いを一つして、シエラに向き直った。

「――僕が案内できたらいいんだけど、さすがに忙しくて。ごめんね、案内できそうにないんだ。もちろん、今分かるだけの地図は描くよ」
「まあ仕方ありませんね。ホーリーの状況を考えれば、それが当然でしょう。あまり気にしないでください」
「ほんっとにごめん。前回はあれだけ大口叩いてついていったのに。……えと、船はディルート一番の操船術を持つ船乗りに頼んで――」
「ルチア、この場所、覚えていますか?」
「えっ?」

 シルディの言葉を遮って投げかけられた問に、ルチアは兎のように体を跳ねさせた。一瞬にしてその場の視線がルチアへと集中する。
 ルチアは大きな瞳を地図に泳がせ、しばらく考え込むように唇を尖らせていたが、やがてぱっと顔を輝かせた。寝椅子の上で跳ねた小さな体が、そのままレンツォにしがみつく。

「うん、うんっ! 覚えてる! だいじょーぶ、ルチア、ちゃんと覚えてるよ!」
「え、ルチア、行ったことがあるの?」
「レンツォと行ったことある! ルチア分かるよ、シエラ達のこと、ちゃーんと案内できる!」
「では、そういうことで。よろしいですか、クレメンティア様」
「え、ええ……?」

 ライナはどうしたものかとシエラを見てきたが、他に案内できるものがいないと言われてしまえば頷かざるを得なかった。危険性を考えればルチアを連れていくべきではないのだろうが、彼女は普通の少女とは違う。
 迷いはあったが、ルチア自身が強く同行を望んだために、シエラ達は彼女に案内を任せることを決意した。

「蛇神よりも、まずは呪詛だな。だが、呪詛の解除なんてやったことがないが……、私にできるのか?」
「一応、書物を読んで方法だけは頭に入れてきました。あとで説明しますから、大丈夫ですよ。呪詛が解ければ、ルタンシーン神の機嫌も良くなるかもしれません。そうすれば、この雨は止む」

 窓を叩く雨が、人魚達の涙と重なった。

「その水中洞窟にはいつ発てますか、王子」
「船の手配はできてる。すぐにでも出発できるよ。明日一日休んで、明後日発てばいいんじゃないかな。それでもいい?」
「ええ、もちろんです。こちらに問題はございません」

 シエラの首肯を受けてエルクディアが答えると、レンツォは緊張感の欠片もなくぐっと伸びをして欠伸を漏らした。つられてシエラも欠伸を噛み殺す。
 薔薇色の髪が、うっすらと滲んだ世界の向こうで揺れている。
 一瞬だけ優しく細められた灰色の双眸が、ルチアを見つめた。

「――それではルチア、明後日、頼みましたよ」
「うんっ、まっかせて!」

 かくして、解呪のための日取りが決まった。


+ + +



 荒れ狂う海を眺めながら、リオンは曇天に手を伸ばして小さく口笛を吹いた。一瞬で、小さな白い鳥のようなものが指先に止まる。顎を撫でて労をねぎらうと、それは一瞬で掻き消えた。
 その生物がなにかなど、リオン自身にも分からない。ただ、気がつけばそこにいた。
 世の中には、幻獣を従えて使い魔にする者もいると聞く。そのほとんどが魔女であるが、自分はおそらく、魔女ではない。――確かなことは言えないが。
 リオン・アヴェノには、ある時期からの記憶しかないのだ。もう十年はホーリーにいるが、それ以前の記憶がない。もともとホーリーの人間だったのか、それとも他国の人間だったのか。気がつけばこの国にいた。当時十五歳ほどだったリオンは、ディルートの海岸に倒れていたらしい。親切な漁師の夫婦に助けられ、共通語とホーリー語を学んだ。そして仕事を転々として、ここまで生活してきた。
 この不思議な使い魔と能力は、そのときから使い方を心得ていた。時折自分の口から零れ出る言葉は、馴染みがないのにどこか懐かしい。誰に尋ねても、どこの言葉か分からないという。
 自分が何者か分からない不安。それをぶつけるように傭兵の道へと進んだ。女の身でありながら、幸いにも武術に秀でていたためだ。女のくせにと揶揄されながらも、腕に物を言わせて立場を確立させた。それだけでよかった。自分がどこの誰か分からずとも、今あるこの場所にいることができるのなら、それだけでいいと思えた。

「早く止めばいいのに」

 今呟いた言葉は、どこの言葉だったろう。
 目を閉じれば、人ではないなにかの気配を感じる。
 自分は魔女ではない。十五のあの日から、この十年でちゃんと年相応に成長してきた。魔女は長命の分、外見の成長がとても遅いと聞く。
 髪は黒い。聖職者ではない。感じているのは精霊の気配ではないだろう。かといって、魔物の気配でもない。だとすれば、これはなんだ。気のせいなのか。だが、それらは確実にリオンの呼びかけに応える。手足となって、風を駆る。
 時折、ひどく胸が苦しいときがある。
 思い出せない過去が影響しているのかもしれない。誰かに呼ばれている気がするのに、誰に呼ばれているのか分からない。ただ、揺らめく炎を見るたびに、胸が引き絞られる。
 水路の周囲に高く積まれた土嚢の点検をして、リオンは兵士に声をかけながらロルケイト城へと戻った。
 明日は、神の後継者達がエルトルリアの水中鍾乳洞へ行くのだという。途中まで同行することになったため、戻って準備しなければならない。
 エルトルリアまでの道程は、そう厳しいものではない。それでも、ルチアが一緒に行くのだから、自分がついていった方がいいだろう。あの男はあれでいて心配性だ。――あの小さな少女と、愛する王子に対してだけなのかもしれないが。

「神の後継者様に祈ったら、私の記憶もよみがえらせてくれるのかしら」

 本心からの願いではなかったけれど、リオンはそんなことを呟いた。


+ + +



「この森を抜けるのか?」
「ええ。森を抜けた先に、小さな町があります。そこの海岸から船を出して、岸壁に沿って半周ほどすると入り口が見えてくるはずですよ。ねえ、ルチア」
「うん! なんかね、この森を通った方が町まで早くつけるんだって」

 脚の強い馬に乗って森を進めば、抜けた先には確かに小さな港町があった。あの森も、晴れていれば大層緑が美しかっただろう。陰鬱とした空気に呑まれていたが、所々に散り落ちた色とりどりの花びらが、元の清廉さを匂わせていた。
 海に近いせいか、町民は皆、どこか高台へ避難しているようだった。誰もいる気配はない。小さなレンガの家が立ち並ぶ町並みは愛らしいというのに、ここまでひと気がないとなると、子供の玩具が並んでいるようにも見える。打ち寄せる高波で、塀が崩れている家もあった。
 出来るだけ高台で馬を放した。いざというときに逃げられるように、縄で繋ぐことはしなかった。


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