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「お、おい、エルク」
「……人の身で、貴女に触れる無礼にお許しを」
「は?」
「貴女が神となられるその瞬間(とき)まで、この命のすべてを懸け、お守りすることをお約束いたします」
なにを言われているのか、これっぽっちも理解できなかった。
ただひどく、胸が、痛い。
くぐもったこの声はなんだ。肌に触れる唇はこんなにも熱いのに、どうして、言葉はこんなにも心を冷やす。
混乱のまま、シエラは前に回されたエルクディアの腕に手を置いた。自分の指先が震えているのに気がついたのはそのときだ。喉が渇く。早鐘を打つ心臓が、いつもとは違う痛みを引き起こす。
「――なんてな」
「え……」
「冗談だよ。あ、でも、守るってのは冗談じゃないぞ。最近は魔物退治ばっかりで活躍できてないからな。たまには騎士らしいところも見せようかと思って」
何事もなかったかのように体を離され、寝室に向かって肩を押された。行けということなのだろう。
見上げた新緑の瞳にはなんの憂いもなく、明るい表情に影はない。
そのままぐいぐいと寝室の扉の前まで押されて、エルクディアは「じゃあな」と背を向けてしまった。まだ思考が追いつかない。今のはなんだったんだ。冗談だと彼は言った。そのあとの態度を見ていると、確かに冗談としか思えない。
だが、冗談にしては、あまりにも――……。
「エルクっ!」
「ん?」
「……あ、その……、……首飾り、大切に、する。――ありがとう」
他になんと言えばよかったのだろう。
薄暗い室内で、見えていないとでも思ったのだろうか。
一瞬切なげに歪んだエルクディアの双眸は、首飾りではなく、シエラの瞳をまっすぐに見つめていた。
+ + +
蒼が、そこにあった。
頭が痛い。胸が苦しい。
掻き抱いた肩は薄く、頼りなかった。
細い首に、鎖をかけた。青を閉じ込めた珠を、彼女に贈った。
朝になれば青は隠れる。武骨な漆黒の神父服の奥、彼女の首元でひっそりと輝くのだろう。
さあさあと降り続く雨の音が、短く零れた罵倒を掻き消す。どうせなら、すべて押し流してくれればいいものを。
『……人の身で、貴女に触れる無礼にお許しを』
堪えきれず、想いに名を付けたことを、恋うてしまったことを、許してほしい。
『貴女が神となられるその瞬間(とき)まで、この命のすべてを懸け、お守りすることをお約束いたします』
だから、ずっと。
その瞬間まで、傍にいることを許してほしい。
「……くそっ!」
この腕の中に、蒼が、確かにあった。
確かにあったのだ。この腕の中に。この熱が届くところに。
――神よ、どうか、奪ってくれるな。
+ + +
翌朝、面会の約束通り、シエラ達はルタンシーン神殿へと赴いた。神殿内はまるで葬儀の最中であるかのように、暗く沈んでいた。やつれたゴルドーに蓼の巫女の体調が芳しくないことを告げられ、予定していた面会も延期となった。
蓼の巫女は、起き上がることも難しい状態らしい。「一刻も早い呪詛の解除と蛇神の発見を」と懇願され、ルタンシーンの縁の深い地を記した地図を渡された。
東の小さな泉にはそれらしいものはなかった。
そこからしばらく北に移動し、山のふもとへやってきた。もう陽は傾きかけている。この辺りはディルートの辺境だが、他にも小さな村が点在しているのだという。山からの湧水も多く、貴重な真水の発生源なのだそうだ。山の向こうはそのまま崖になっており、ホーリーの北を守護する天然の要塞の役割も果たしている。
これだけ雨が続いているのだから、斜面が崩れる心配もあった。あまり近寄らず、遠くから気配を探っていたとき、シエラの意識をなにかが弾く。
魔気ではない。禍々しいものではなく、どちらかといえば、それは神気に近かった。変わった神気だ。このディルートの街で妙な男に遭遇したときに感じたそれに似ている。
それをライナに告げると、彼女は少し考えるそぶりを見せたが、真面目な顔で頷いた。
「探してみましょう。件(くだん)の絵描きのように、聖職者の血を使ったものでもあれば一大事ですから」
「シエラ、それはどのあたりから感じるんだ?」
「山の方。少しずつ、近づいてきている気がする」
エルクディアとは、昨夜の話はしていない。お互い、なにもなかったかのようなそぶりで接している。
その方が楽だった。考えれば考えるほど、分からなくなっていたからだ。
ロルケイト城からここまで、徒歩でかなりの時間を要している。今夜はこの村で宿を取った方がいいだろうという話になった。神気は遠ざかっていない。
手近の宿に飛び込み、手早く手続きを済ませたところで、シエラは自分に向かって手を振る少女の姿に目を剥いた。
「ルチア!? お前、なんでここに!? 城に残っていたんじゃないのか!?」
「えへへ、来ちゃった。あのねあのね、この子もいっしょだよぅ。レンツォがね、シエラ達が今日向かうならドミロテの山だって言ったの。イコルザ村の宿で待ってたらぜぇったい来るからって! ついていきたいなら行ってきてもいいって言ってくれたんだぁ」
「レンツォが? テュールまで、そんな……。お前は具合が悪そうだったから、置いてきたのに……」
「がーうー!」
ルチアの腕の中で、幼竜が心外だとばかりに唸りを上げる。ここのところ調子が優れていないようだったから城に置いて来たのだが、テュールにとってはそれが不満だったらしい。すぐさまシエラの胸に飛び込んできて、猫のように頬を摺り寄せてきた。
宿の受付をしていた中年の女性が小さなロビーでシエラに駆け寄るルチアを見て、あんぐりと口を開けるライナに笑った。
「あのお嬢ちゃんねぇ、この雨の中、あんなに小さいのに軍馬を飛ばして走ってきてねぇ。昼前だったかな。『シエラたちを待ってるの』って、それはもう、楽しそうでねぇ。最近じゃ、娘にシエラって名前つけるのも増えてきたから本気にはしてなかったんだけど。冗談で『シエラって、神の後継者様かい?』って聞いたら、『そうだよ』なんて答えるもんだから、あたしらもびっくりして」
「それは……、そうでしょうね」
「本当かどうか分からなかったけれど、もし本当だったらいけないと思いましてねぇ。特別いいお部屋を、ご用意しておいたんですよ」
ほけほけと穏やかに女性は笑い、ライナに鍵を手渡した。着替えもすべて用意してあると言われ、唖然としたまま案内された部屋に足を踏み入れてみれば、そこは宿の外観からは想像がつかないほど立派な部屋だった。
目の前の大きな窓からは、高くそびえる山が見える。晴れていれば美しい村の風景が一望できたのだろう。華美な装飾はないが、統一された家具が高級感を漂わせている。ライナが慌てて普通の部屋を希望したが、女性は笑顔のまま首を振って譲らなかった。
ルチアはシエラの足にしがみつき、離れる気配がない。神気の正体も探りに行かねばならないし、ライナは渋々この部屋に泊まることを飲んだようだった。
ルチアを連れて外に出れば、分厚い雲が僅かに途切れ、その隙間から夕陽が村を染め上げていた。久方ぶりに見た夕陽の赤に、思わず見惚れる。山の向こうに沈んでいく陽の、なんと美しいことか。小さな家々が照らされ、雨によって回転を速める水車の水に橙色の光が落とし込まれている。
雨の中垣間見えたのどかな光景に癒されつつ、シエラはゆっくりと神気を探った。歩を進めるうちにそれはだんだんと近づいてくる。不思議な神気は、ある店の前で一段と強くなった。酒場のようだ。中を覗くと、すでに村人達で店内は賑わっていた。酒と肉のにおいが鼻先をくすぐる。
ごちゃごちゃとした空間の中に、一ヶ所だけ異なる空気を発する場所があった。
――あれだ。直感がそう告げる。
シエラの目配せを受けて、ライナが頷く。この店内の中で、それは明らかに浮いていた。彼女にも分かったのだろう。シエラの代わりに声をかけたのは、ライナだった。
「すみません。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
騒がしい酒場の外に出て、宿屋のロビーでシエラ達は腰を落ち着けた。
声をかけたのは、ルチアよりも少し年上に見える少女だった。鈴つきの飾り紐で結われた漆黒の髪が美しく、服装は蓼の巫女のそれに似ている。蓼の巫女よりも随分と動きやすそうではあったが、どこか遠い国の民族衣装のようだった。