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「人の体に神の力を入れることは、無謀とも言えます。シエラの様子がおかしくなって神気が暴走するのも、あの子の体が、受け止めきれないからなんだと思います」
「受け止めきれないって――、それ、どうしたらいいんだ? ユーリみたいにうまく制御すれば」
「できません。言ったでしょう。人とは違うんです。人には扱いきれない力を、あの子は無理やり抱えているんですよ。……神の力は、人を壊しかねない」

 握り締めた指先が白く変色しているのが見えた。エルクディアの顔を見ることができない。考えを言葉にすることは、こんなにも難しいことだったろうか。
 エルクディアは沈黙を守ったままだ。言葉が見つからないのか、それとも必死で堪えているのか、どちらだろうか。
 息が詰まるような長い沈黙のあと、エルクディアがようやっと口を開いた。

「……本当に、どうしようもないのか?」
「今のところは。陛下もそう仰っていました」
「でも、いずれシエラは神になるんだろ? だったら、神の力があってもおかしくないじゃないか。危険だって別に、」
「どんな歴史書を紐解いても、神の後継者が“神になる”瞬間の記述は見つからないんですよ。……わたしがなにを言いたいのか、分かりますか」

 ずっと目を背けてきたことだ。
 それゆえに、見るのが怖い。

「神の後継者が神になるとき、――人の体は、必要ありませんよね」

 神の力を抑えきれない、脆弱な人間の器。
 それは神には必要のないものだ。
 ただの憶測でしかない。どこにも記録は残っていない。だから、どうなるのか分からない。それでも、導き出された答えに戦慄した。
 俯いたライナの肩を、勢いよく立ち上がったエルクディアが両手で掴んだ。強く握られ、そのまま前後に大きく揺さぶられる。胸の上でロザリオが跳ね、鎖が悲鳴のように音を立てた。

「ただの憶測だろ!? そんな、シエラが死ぬみたいな言い方っ! なにか記録はないのか、ちゃんと探したのか!? それに、――そうだ、シエラがいつ神になるかも分からないじゃないか、そうだろ? だったらそれまでの間に、どうにかなるかもしれないだろ!」
「分かるんです! ……分かるんですよ。もう、のんびりしていられないんです」
「分かる、って、どういう……」
「……時渡りの竜が」

 以前、エルクディアに問われて誤魔化したことがある。なにも知らない。なにも見つけていない。アスラナの図書館で、ライナは確かにそう答えた。アビシュメリナでも同様に、なにも答えずに逃げてきた。
 けれど、もう限界だ。一人では抱えきれない。

「時渡りの竜が、神の後継者の元へ現れた。それはつまり、魔王が、目覚めた証なんです」

 手にした古びた書物。かろうじて読み取れた単語を見たとき、背筋が凍ったのをはっきりと覚えている。
 力の抜けた体を再び椅子に戻し、エルクディアは呆然としたままライナを見つめてきた。もしかしたら、魔王だなんだという話は、聖職者ではない彼にとって非現実的な話なのかもしれない。
 だとすれば、こう言えばいいのだろうか。「魔王が目覚めたということは、シエラが神を継ぐのも間近です」と。

「ほんの、気まぐれだったんです。書庫で、古文書を見ていて。ふいに、数百年前の、童話集を見つけて。なんてことはない、今でもあるような、童話でした」

 その中に、時渡りの竜に関するものもあった。現代に伝わるような内容のもので、特にこれといって変わったところはなかった。

「ですが、紙の端に、細工したような跡が、あって」

 もう震える声を抑えることはできなかった。泣いたところでどうにもならないのに、どんな意味を持つ涙かさえ分からないのに、眦から熱い雫が滑り落ちていく。
 口を覆っても、漏れる嗚咽は隠しきれない。

「専門の方に頼んで、剥がしてもらったんです。そうしたら、古代語で、なにかがびっしりと書いてあって」

 ライナは古代語を解さない。それでも辞書を片手に読み解いていくと、そこには恐ろしいことが書かれている気がして、思わず手を止めた。
 時渡りの竜。魔王の目覚め。神の交代。光あれ。
 拾った単語は、それだけならどの書物にもありそうなものだった。けれど、嫌な予感は消えてくれない。

「すぐシルディに送って、解読を頼みました。古代語にも、古文書そのものにも精通している知り合いは、彼くらいでしたから」
「……アスラナにも、専門家はいるだろ」
「もし、わたしの予想通りのことが書いてあったとしたら? 時渡りの竜はここにいる。魔王が目覚めて、世界の終わりが近づいているのだとしたら。急に近づいてきた現実に、この国は混乱に陥るでしょう。漏らすわけにはいかなかった。“クレメンティア”から“ホーリーの王子様”への手紙を盗み見る者は、いたとしてもあの秘書官くらいでしょうから」

 ただのライナでは、ホーリーの王子に手紙を届けることは難しい。届けること自体は可能だが、本人が手にする前に誰かの目に触れることは間違いない。それを避けるためには、クレメンティアの名を使うことが必要だった。
 早船を出して、ありとあらゆる方法で早期解読を求めた。なにを見たとしても、なにも聞かずに、ただ内容のみを忠実に訳して送るようにと頼んだ。一度エルガートの屋敷を通して返ってきた手紙には、ライナを気遣う言葉と、便箋一枚分の訳文が同封されていた。
 濡れないように鉄の箱に入れて、ポポ水軍で運んだのだろうか。エルガートを一度介したのは、「ライナ」へ自然に手紙が届くようにとの配慮だろう。ファイエルジンガー家の者が、シルディからの手紙を盗み見るわけがない。それだけの信頼がある。そして、家族からの手紙は、なんの疑いもなくライナに届けられた。
 エルガート経由で届けられたにも関わらず、返信は驚くほど早かった。寝ずに解読してくれたのだろうことはすぐに分かった。ライナ自身へ宛てられた手紙の文字は、時折ミミズが這ったようになっていたからだ。
 その優しさに、胸が痛んだ。

「……そこには、なんて?」
「“時を渡る竜は、魔王の目覚めと、時を同じくする――”」

 何度も読んで暗記した文面を、ライナはエルクディアに語った。


 ――時を渡る竜は、魔の王の目覚めと時を同じくする。
 彼の者の目覚めが竜の心臓を動かし、殻を破る。
 それは、世の破壊を告げる音である。
 世を呑む闇は、暗さを増すことだろう。神は光を衰えさせることだろう。
 竜は、神の膝で眠ることを望む。
 目覚めし竜は、血に忠実に、創世神の愛した神子の前に現れるだろう。
 古から繰り返されてきた、抗いがたい定めである。

 神を継ぐ愛子に、祝福を。

 三度冬が廻る頃、世は闇に包まれる。
 これを見る、遠い未来の神子よ。嘆くことなかれ。そなたは愛された。
 蒼を纏い、新たな光となれ。
 闇を祓い、世を包む、蒼となれ。
 我らが神子は、魔の王を打ち倒し、竜と共に光となった。
 これを見る、遠い未来の神子よ。嘆くことなかれ。そなたは愛された。
 審判の時を、恐るるなかれ。
 神子よ。そなたは愛された。


「竜と共に、光と……?」
「陛下にもご相談しました。なんとなく、気づいていたのでしょうね。シエラが、シエラでいられないことは。……当然と言えば、当然ですけれど」
「ちょっと待てライナ、三度冬がって、それってつまり、あと三年しか時間がないってことか?」
「正確には、あと二年、あるかないかですよ。テュールと過ごしてから、もうどれだけ経っていると思っているんですか? ――このディルートにいると忘れがちですが、今はもう、冬なんですよ」

 わざと茶化そうとして、失敗した。歪んだ顔は悲惨なものだったろう。唇の端から滑り込んできた液体は、ひどく塩辛かった。


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