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「神は、万能ではあられない。人を救うだけが神ではないのです。我ら人の立場からすれば、とても、残念なことですが。神は、我らのためだけにあるのではないのです。……おつらかったですね。お可哀想に」
「ふざけるな……、離せっ」
「あなたの世界とは、どのようなものだったのでしょう。あなたはここで生きておられる。傷を負って、泥を啜ってもなお。数多の命が息づくこの世界で。――あなただけの、特別な世界とは、いったいどのようなものだったのでしょうか」

 何度も頭を撫でる手の優しさに、抱き締めてくる体の温かさに、気が狂いそうだった。
 慈愛に満ちた声に頭の中が揺さぶられる。
 その声に、甘い匂いに、もう声すら思い出せない母の影が浮かんで消えていった。

「はなせっ……」

 眦から雫が落ちる。
 世界は壊れた。壊された。神などいない。いてたまるか。神がいるというのなら、なぜあの人を奪った。あの人は、誰よりも大切な人だったのに。唯一無二の世界だったのに。許せない。許せるはずがない。
 たまらなくなって、目の前の細い腕に強く爪を立てた。それでもヒナナは腕を緩めない。「よく頑張りましたね」と、優しい声で頭を撫でてくる。大丈夫。なんの根拠もないその言葉を、呪文のように繰り返す。
 苦しいのは傷のせいだ。涙が止まらないのは、傷が痛むからだ。ファウストの知らない言葉で、ヒナナはなにかを囁いた。ルチアならば分かるのだろうか。あの子はいろんな言葉を理解する。
 優しく微笑むその顔を見た瞬間、意味など分からなくとも構わないと思ってしまったのだけれど。




「――ぼくらを一番最初に拾ってくださったのは、ホーテンさまだった」

 ヒナナの胸に頭を抱かれたまま、ファウストはぽつりと零した。
 あの日のことはよく覚えている。馬車の中からかけられた声。半ば従者に連れ去られるようだったけれど、そのときはまだ、牙を剥く度量など備わっていなかった。ただ、乳飲み子のルチアを抱えて、どうしようと路頭に迷っているだけの頃だった。
 どうしてこんなことを話しているのだろう。もう二度と関わらないだろう相手だからか。異国の相手だからか。それとも、母を思い出したからか。
 ヒナナの優しい声に促されるままに、ファウストは昔を語った。
 家族のこと、ホーテンのこと、ベラリオのこと。
 言葉にするたびに、胸に痛みがよみがえる。
 どうしてこんな見ず知らずの、得体のしれない相手にすべてを吐露する気になったのか、自分でも理解できない。それでも、ファウストの口は言葉を紡ぐことをやめようとしなかった。
 ホーテンによって与えられたぬくもりが忘れられない。彼のおかげで生き長らえた。人として、化け物として、ここまで生きてきた。あの方だけがすべてだった。
 甘い思いが、黒く濁る。

「なのに、ルチアはぼくらを裏切った」

 噛み締めた唇が切れ、口の中に血の味が広がる。

「許さない。ホーテンさまを殺したあいつらを、絶対に。殺してやる。神の後継者も、騎士も、シルディも、みんな。一人残らずこの手で貫く。――ルチアでさえ」

 傷が癒え次第、ホーリーを出る。そしてまずは神の後継者を殺し、騎士長を殺し、そしてホーリーに戻ってシルディとレンツォを殺す。
 もうそれは決定事項だ。

「……お止めした方がよろしいのでしょうが、私にはあなたの人生に口出しできるほど、大切な人を持ったことがございません」
「そんなもの、されたくもない」

 ヒナナは己の髪から鈴のついた飾り紐をほどくと、鈴を外してからそっとファウストの手首に巻きつけてきた。なんのつもりかと睨みつければ、彼女は両の手を祈るように組み合わせ、瞼を閉じた。

「蛇神様にお仕えする巫女として、あなたに祈りを。あなたの進む道に、光があらんことを」

 それから一週間と少し。
 十分に傷の癒えたファウストは、ヒナナになにも告げることなく、夜のうちに姿をくらませた。行先など告げるつもりはなかった。雨がやむまで船が出ないことは見えていたが、じっとしているわけにもいかない。
 目を閉じれば、蒼を血の色に染め変える光景ばかりが浮かぶ。
 清らかな巫女にとて、この憎悪は打ち消すことはできなかったのだろう。
 なにが、神だ。
 ファウストは静かに、闇の中に身を潜ませた。


+ + +



 ライナ・メイデンを名乗ったことに、後悔はない。
 胸に提げた銀のロザリオを重荷に感じたこともない。一度は逃げ道にしてしまったけれど、これは自らが望んだ道だった。幼い頃、左手の甲に浮かび上がっていた十字の痣には、誇らしささえ覚えていた。
 ディルートが誇る堅城、ロルケイト城の一室で、ライナは雨に叩かれる窓をじっと見つめていた。ひどく暗い夜だ。まるであの人の瞳のようで、体が震えた。脳裏で金茶の髪が波打っている。恐怖が完全に癒えたわけではない。心に刻みつけられた傷は、きっとこれからもライナを苦しめるのだろう。
 シエラはもう寝た頃だろうか。そんなことを考えていると、扉が叩かれてエルクディアが入ってきた。緊張した面持ちに、思わず苦笑が漏れる。

「シエラはもう寝ましたか?」
「ああ、ついさっき。疲れてたんだろうな。……それで、話ってなんだ」

 ライナの向かいに座ったエルクディアは、いつもはきっちりと着ている軍服の襟を緩めていた。気だるそうな様子に、彼もまた疲れているのだと気がつく。それでも、今の機を逃せばなかなか告げることはできないだろう。
 緊張で乾く唇を舐め、ライナはできるだけ声を震わせないように意識しながら切り出した。

「シエラのことです。見ましたよね、先日の、あの様子」
「……海に落ちたときのことか?」
「はい。その前にも。エルクも感じていると思います。シエラの力は、わたし達とは比べ物にならない」
「神気の暴走だろ? それは前にも聞いてる」

 蒼い光が迸り、すべてが凍りつくような音が聞こえた。ぞっとするほど美しい光景が、瞼の裏によみがえった。
 人とは比較にならない神の後継者の力は、それこそ世界を救うにふさわしい。シエラ自らが制御できるようになれば、それはなんの支障もきたさない。――ライナとて、そう思っていた。

「神気というのは、通常、聖職者の中に納まっているものなんです」

 血と同じように、体内を巡り、とどまっている。最初こそ呼吸のように無意識に外に出てしまうが、制御することを覚えれば、力を行使しない限りそれが体外へ出ていくことはない。
 聖職者個人に備わった神気は一定量だ。祈りを続け、修行を積むうちに徐々に増していくことはあっても、突然増幅することなどありえない。すなわち、暴走することなど皆無に近い。

「シエラは、身の内に納まりきらない神気を持っています。それはあの子が神の後継者だから。……神を継ぐ力を、持っているから」
「悪いライナ、意味がよく分からない。シエラの神気が強いことは分かったけど、それは改めてする話なのか?」
「人じゃないんです」

 勢いで言いきって、すぐさま空気が凍ったのが分かった。
 誰を指しているのかは言わずとも分かったのだろう。エルクディアの新緑の双眸が、限界まで見開かれている。

「……人じゃないんですよ、エルク。わたし達の神気と、あの子の神気は同じであって、まったく異なる。あの子が使っているのは、神の力そのものなんです」
「でも、……でも、シエラは、人だろう」
「ええ。そうですね。あの子は確かに、まだ人です。だからこそ、怖い」

 流れるような蒼い髪に、透き通った金の瞳。繋いだ手は柔らかく、時折見せる笑顔がなによりも愛おしい。
 守らなければいけない存在だけれど、ライナにとって、シエラは大切な友人でもあった。最初は義務から生まれた好意だった。気がつけば、不器用なあの子にすっかり虜になっていた。
 だからこそ、不安で、怖くて、泣きそうになる。


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