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「シエラ! こちらの人魚は捕縛しました、あとで浄化をお願いします!」
「分かった、先に向こうを片付ける!」

 駆け出そうとした足が滑り、転倒しかけたところをエルクディアに抱きとめられた。そのまま横抱きに抱えられ、抗議する間もなく後方へと運ばれる。確かにこの方が速いのは事実だ。濡れた前髪の張りつく額を見て、心臓が跳ねた。貫く心臓の痛みは、きっと魔気の影響だ。
 落ちないようにエルクディアの首に左手を回し、しがみつく。右手はしっかりとロザリオを握り、口からぼたぼたと酸を零す人魚達に向かって構えた。
 矢か、それとも、炎か。なにがいいのだろう。本来は清らかな存在であった彼女達を、できるだけ苦しめずに浄化する方法は。

 ――すべて無に帰せばいい。

 身の内で誰かが囁く。精霊の声ではない。けれど、確かに聞こえた。甘く、とろけるような声だ。

 ――汚らわしい存在は、すべて無に。堕ちた存在に、粛清を。世界には、綺麗なものしかいらないのだから。

 それは確かに、自分の声だった。
 ロザリオを握る指先が凍る。ひどく冷たい感覚に、心臓まで凍りつくような気がした。目の前の醜悪な姿を見て、嫌悪感が込み上げてくる。泥を塗りたくったような髪に、腐臭を放つ爛れた口。目は落ち窪み、血の涙が伝う頬は赤黒い。美しさなど微塵もない姿に、怒りさえ覚えるほどだ。
 幻獣は神に愛された生き物だ。清らかで美しいからこそ、愛される。
 穢れた幻獣は、愛を与えた神への裏切りに等しい。

「……私を、裏切るな」
「シエラ?」

 裏切るのなら、必要ない。
 冷たく凍った指先が、青白い光を放つ。こんなにも冷えているのに、血は沸騰するように熱く感じた。頭の中に文字が躍っている。これは神言だろうか。心臓がずくずくと痛みを訴える。
 伸ばした爪の先から滴る雫が、音を立てて凍りついた。比喩ではなく、実際に、それは氷となった。

「おい、シエラ。シエラ!」

 頭の中で繋がった神言を紡ごうとしたシエラの頭を、エルクディアは強引に胸に押しつけることで声を奪った。瞠目する。急に体の向きが変わり、横抱きから片腕に腰かけるような形で抱き直された。己の意思とは無関係に景色が変わる。
 ズバッという妙な音と共に、甲高い悲鳴が轟いた。エルクディアの長剣が人魚の胴を切り裂いたのだ。のたうつ姿を見て、はっとする。

「なぜ斬った!?」
「お前の様子が変だったからだろ! 早く浄化しろ!」

 変とはどういうことか。
 血を流し、苦しみもがく人魚へロザリオを向ける。
 祈りを込めて、先ほどと同じ神言を紡いだ。

「<神の炎に抱かれて眠れ、聖火葬送(セイクリッド・クリメイション)!>」

 せめて一瞬で、苦しみそのものから解放してくれればいい。願いは法術へと染み込み、燃え上がった炎は凄まじい勢いで人魚達を焼き尽くした。甲板に流れた血の跡に炎が這う。エルクディアの長剣にさえ炎は纏わりつき、刃を傷めることなく、付着した血を聖灰へと変えた。
 雨に流されて灰が光る。見上げた先のルチアは、何度か船を見回して大きく首を振った。となれば、あとはライナが捕らえた人魚を浄化すれば終わりだ。もう走る必要はないのだし、自力で歩けると抗議したのだが、エルクディアはシエラを離そうとしなかった。妙な気まずさを胸に抱えたまま、ライナ達の元へと戻る。
 最後の人魚を浄化する直前、悲しげな顔をしたシルディと目が合った。彼はひどく苦しそうに眉を寄せ、そして、音もなく言った。声にならないそれがどうして分かったのか、シエラにも分からない。ただ、その唇の動きは、前にも見たような覚えがあった。

「――アネフィア」

 どうして彼は、創世神の名など呟いたのだろう。


+ + +



 助けて 苦しい
 呪われた 穢された
 血が腐る 水が澱む 歌が割れる
 悪しき声 忌まわしき血
 助けて


 助けて


 そこに、青はなかった。
 叩きつけるような雨の根元には、分厚い雲が空を覆い隠している。青空など一欠片も見えない。黒く、重く、鉛の板で蓋をしたかのような空が頭上に君臨し、海はそれに応えるように暗く染まっていた。
 そこに、青はなかった。
 シルディが、ホーリーの民が愛する青は、どこにも。
 唯一の青は、彼女だった。けれど彼女の青は、蒼であって青でない。その色は、空の青でも海の青でもないのだ。
 とても美しいけれど、シルディが慈しむ青とは異なっている。
 シルディは、奇跡の蒼を前にしてなお、あの色を渇望した。世界が彼女の蒼を望んでやまない中で。
 この心が欲したのは、ホーリーブルーだ。たとえ唯一であろうと、たとえ世界が彼女の蒼を望もうと、シルディが今、そしてこれから先、守り続けたい青はホーリーの色だ。
 だから、彼は瞳を閉じた。声を、歌を聞いた。歌はやがて謳となる。
 自ら暗闇を呼んだ視界に光はないが、かつて悠然と広がっていた光景を思い出す。透き通った青い世界。鮮やかな魚と戯れ、白い砂を踏み、絡んだ海藻を払ってイルカを追うこの世界。
 そこに、嘆きの声は似合わない。
 去って行く穢れた人魚達を見送り、荒れる海に目を落とす。耳鳴りのように響く怨嗟の歌に、胸が痛んだ。

「……そうだね。終わらせよう」

 あるべき姿に。
 それが叶わないのならせめて、永久の安らぎを。


 助けて。
 その歌がもう二度と紡がれないことを願いながら、濡れて濃さを増した奇跡の蒼に向き直った。


+ + +



「呪詛?」

 揺れる船室で髪を拭きながら、シルディは深く頷いた。

「そう、呪詛。人魚の歌から読み解くと、誰かが呪詛を施した可能性があるんだ。それが穢れの大元だと思う」
「人魚の歌って……、あの歌の意味が分かるんですか?」
「うん。あれは古代語だった。歌って言うより、もう悲鳴みたいなものだったけど。……ずっと叫んでたんだ。『苦しい、助けて』って。『呪われた。穢された。帰りたい』って」

 その声を聞くために、シルディは結界を解くことを望んだのだと言う。神聖結界によって、言葉は随分と削られていた。だから、結界の解除を望んだのだと。
 あのときの気迫を思い出し、シエラはなんとも言えない気持ちになる。この王子の言葉一つで、勝手に口が動いていた。気品や気高さといったものなら、ライナの方がよほど上だ。それなのに、あのときは逆らえる気がしなかった。

「なるほど……。呪詛だとすれば、あれだけの人魚が魔物化したのも頷けます。問題はそれがどこにあって、誰が行ったのかということですが」
「またアビシュメリナか? 二度もあそこに潜るのは正直遠慮したいな」

 頭を掻いたエルクディアに、シルディは苦笑した。

「アビシュメリナではないと思うよ。あそこは単純に、隠れ家にしやすいだけなんだと思う。呪詛には媒介がある。それを置きやすい場所を探せばいいんだろうけど……」
「その呪詛は、人魚を呪ったものなのか?」
「……どうだろう。人魚というよりは、ルタンシーン……いや、ディルート全体への呪いかもしれないね」

 ディルートを呪う呪詛。それが人魚達を魔物に至らしめ、ルタンシーンの神域を穢しているというのか。
 シルディは一つ息を吐くと、深く頭を下げてきた。

「――ごめんなさい」
「え? どうした、急に」
「結界があったから、声が聞こえにくくて、それであんな風に言っちゃったけど、でもそれってみんなを危険に晒すことだったんだよね。時間がなくても、理由を説明すべきだった。それなのに、説明もなしに結界を解除しろ、だなんて……。本当にごめん」
「ええ〜? でも、シルディのおかげでいろいろ分かったんでしょお? じゃあ、ごめんなさいするひつよーないんじゃないの?」
「そういうわけにはいかないんだよ、ルチア。だって、僕のわがままでみんなを危ない目に遭わせちゃったんだから」
「でも、シエラがぱぱってやっつけてたよ? すごいねぇ、シエラ!」

 きらきらとした目で見上げてくるルチアに、シエラはどう応えていいものか分からなかった。エルクディアの腕が触れていた個所が、妙に熱く感じる。向けられた新緑の瞳が物言いたげな色を宿していたが、彼は結局なにも言わなかった。
 しゅんと肩を落とすシルディは、すっかり大人しく縮こまっている。シエラにとっては、こちらの姿の方がしっくりくるのだから不思議だ。


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