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 船室の中、シエラはゆっくりと目を閉じた。激しい雨音と波の吠える音が拮抗している。船が軋み、あちこちで食器のぶつかる音がしていた。そんな喧騒がやがて、すうっと消えていく。
 深い海の底から、痛みを伴う歌声が聞こえてくる。頭や胸を容赦なく締め付ける、悲痛な叫び。
 シエラが立ち上がったのを合図に、ライナが甲板へと飛び出した。



「来た! ねえねえ、ルチアの毒で一気にやっちゃう〜? 今度は落っこちたりしないよ!」
「黙れ、下がってろ。……王子、頼んでもよろしいでしょうか」

 シエラの隠さない神気につられてか、予想通り、魔物へと転化した人魚達は船の周りを取り囲んだ。爛れた手が波間から何十本と覗き、神聖結界に阻まれて怪鳥のような悲鳴を上げている。
 先日の反省をまったくしていないルチアがはしゃいだ声を上げるが、エルクディアに叱りつけられて頬を膨らませる。シルディが彼女の手を引き、抱き締めるようにして帆柱まで下がった。これでそう容易く海に落ちることはないだろうが、船室にいてくれた方がこちらとしてもやりやすいのに。そんな考えを見抜いてか、シルディは目を眇めて言った。

「わがままでごめんね」

 誰に対しての発言か、もはや分からない。
 海面に突き出す無数の腕と、眼窩の窪んだ人魚の顔を見つめて、シルディは歯噛みする。
 ライナが聖水を海に撒いたのとほぼ同時に、あの歌が始まった。重なり合った不協和音。悲鳴のような、叫びのような、美しさの欠片もない声だ。

「っ、<――雨滴よ、聖なる水となりて魔を貫け!>」

 降り続く雨を聖水に変えるよう、シエラは精霊に祈った。握り締めたロザリオが雨で滑る。水霊が素早く反応して神気を纏った雨滴へと変わり、海面に浮かぶ人魚達の肌を焼いた。
 轟く悲鳴。シュウシュウと肌の焼ける音が聞こえる。それでも、歌は止まない。
 一匹の人魚が、魔魚を放り投げてきた。神聖結界に阻まれて海に落ちていくが、危険がないとは言えない。
 海の水すべてを聖水へと変えてしまえたら、どれだけ楽なことだろう。しかしそれほどの力はないし、仮にできたとしても、それは海水を真水へと変えてしまうのだから、海を殺すことになる。叩きつける雨を聖水にして、徐々に力を奪い浄化すること。それが最も効果的なように思えた。
 エルクディアに支えられながら、シエラは光矢をつがえた。無数にいる人魚達に向かって、同時に三本の矢を放つ。これだけの大群だ。狙わずともどこかに当たる。

 ――まるで、嬲り殺しているようだ。

 せめて一撃で倒すことができたら、どれほど彼女達のためになるだろう。
 悲痛な叫びが胸に痛い。クロードに教えられた炎の法術でも行使しようかとしたところで、ライナがあっと驚きの声を上げた。

「シルディ!? 危ないから下がっていてください!」
「ちょっと静かにして!」
「おい、どうし――」
「静かに! クレメンティア、結界解いて! 早く!」
「そんなことできません! なにを言うんですか!?」
「いいから早く!! クレメンティア!」

 首を振って否定するライナに、焦ったようにシルディは叫んだ。

「早くして!」

 鋭い声を放たれても、ライナはロザリオを握る手を緩めない。当然だ。今ここで神聖結界を解けば、下にいる人魚達はたちまち船を這い上がってくるだろう。そんな危険を冒す意味が分からない。
 ライナの判断は間違っていなかった。間違ってはいないのに、どうしてか、シルディが正しいように見えてくる。気圧されつつも頑として首を振らないライナに見切りをつけたのか、シルディはシエラの方を振り仰いだ。
 なにも言われなくても、視線だけで分かった。
 ――できるでしょう。
 夜の海を映したような漆黒の瞳が、そう言っている。神の後継者であるシエラならば、ライナが築いた結界を打ち消すことも可能だろう。シルディの目はそう語っていた。
 言いたいことは理解できた。しかし、そんなことが本当に可能なのだろうか。味方の結界を消すだなんて、考えたこともない。

「シエラちゃん!!」

 声に弾かれるように、シエラは神言を紡いだ。

「<――解>」

 結界を解除する、その一言を。自分が築いたのではない結界だ。それが通用するとは思っていなかった。
 だが、一瞬のうちに風が吹き抜けると、のしかかってくる魔気が強さを増したのが分かった。人魚の歌がより大きくなる。神聖結界が解除されたのだ。

「シエラ……!?」

 ライナの驚きに満ちた声が聞こえたが、すぐさまその口はシルディの手によって塞がれた。
 雨音と波音、そして人魚の歌が、その場を支配した。
 何事かを呟いたシルディが、途端に俯いた。縁を掴んでいる手が白く変色している。ライナがその肩に手をやるよりも先に、彼はゆっくりと顔を上げた。
 歌が聞こえる。幾重にも重なった不協和音。若く、老い、男のような、女のような、金属を掻いたときのような、あるいは泥沼に沈み込んだときのような、そんな音が合わさって鼓膜を突き破らんばかりに辺りに響く。

「……ごめんね。君達もつらいよね。寂しいよね」
「シルディ? 貴方、なにを言っているんですか?」
「シエラ、ライナ! 人魚が船を上ってきてる!」
「すぐに結界を張り直します!」

 船体に張り付く人魚の影は、おぞましい彫刻のようだった。山となり、下敷きになった人魚の体をよじ登って、さらに上へと這い上がってくる。
 そうして船べりに手をかけた人魚にエルクディアが剣を振り下ろそうとした瞬間、シルディがライナの手から聖水の瓶を引きたくり、這い上がってきた人魚に向かって振りかけた。聖水に手を焼かれ、体を支え切れなくなって人魚が海へと落ちていく。

「ごめん。でも僕は、君達のところへは行けないんだ」

 苦しげに歪んだシルディの表情に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
 痛みや恐怖に歪められた彼の顔は、このホーリー滞在の間に何度となく見てきた。それでも、今のこれは違う。種類のまったく異なるそれに、シエラは妙な胸のざわつきを覚えた。
 ライナが神聖結界を張り直したことにより、今船体にしがみついている人魚以外は阻むことができるだろう。不利を悟ったのか、大群は徐々にばらけ始め、結界の外の人魚が海底に戻り始めている。結界の内側にいる人魚さえ祓魔すれば、この場は収まるに違いない。
 力を持たない船員は、すでに船室へと引き上げさせた。揺れる甲板の上、ルチアが跳ぶようにして帆柱にしがみついて登り、船全体を見渡して叫んだ。

「シエラ、うしろのほう! 三匹入ってきてるよ! それから一番前の左、もうすぐ来る!」
「助かる! そのままいけるか!?」
「まっかせて! あっ、シエラの真横! 上がってきてるよぉ!」

 頼むから落ちてくれるなと言い置いて、シエラはルチアの指示通り踵を返した。濡れて滑りやすい甲板の上だ。すぐさまエルクディアが背後について体を支える。這い上がってきた人魚の腐臭に、吐き気が込み上げてくる。人魚が零す涙は真珠だと聞くが、今の彼女達が流すのは赤黒く濁った泥だ。
 細い腕から飛び出しているのは、骨だろうか。それを爪のようにして、甲板に上がってきた一匹が振り下ろしてくる。エルクディアに抱えられるようにして避けたシエラは、三匹が重なるのを待って呼吸を整えた。

「<――神の炎に抱かれて眠れ! 聖火葬送(セイクリッド・クリメイション)!>」

 突き出した手の先から青白い炎が勢いよく放たれ、一瞬にして人魚達を呑み込んだ。水霊の多い海の上では、炎術の効果は最大限に引き出されるわけではない。だが、クロードから学んだ法術は威力をそのままに、魔物を浄化へと導く。耳をつんざく断末魔、消えていく腐臭。足元に流れてくる水には灰が混じる。
 威力が大きい分、体力も消耗する。これだけでどっと疲れが押し寄せてくるが、ルチアの声が今度は右舷後方を指定した。



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