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 記憶にあるのは、どこか寂しいけれども、緑も人も回復してきた国の様子だけだ。成長してから、辺境の村の隅でたくさんの墓が並んでいるのを見た。たくさんの花が供えられているのを見た。
 実際に死にゆく人々を見ていた者にとって、あの日々は本当に悪夢そのものだったのだろう。死に絶えた村を見て、墓に収まらない死体を見て、レンツォはなにを思ったのだろう。
 多くの者が諦めた。疫病は防げない。ホーリー自慢の水路を通じて死の恐怖が蔓延していく。人が、家畜が、土地が死ぬ。医者にも止められない。病んだ者が死に絶えるのを待つしかない。――そんな悲嘆の呟きを、シルディは書物で読んだ。

「何年前だっけ。レンツォが、二十歳くらいのときだよね、確か。ベラリオ兄様に肩を斬られたのって」

 「斬られた?」シエラが怪訝そうな顔をしてレンツォを見たが、彼はなにも言わず、ただ眉をぴくりと動かしただけだった。彼女達を前にする話ではないのかもしれない。だが、一度堰を切った言葉は止まることを知らない。
 いつだったか、ベラリオは楽しそうに笑っていた。
 ――俺はな、あいつに言ってやったんだ。死んだ村に行って、死体ばっか見て、結局なんもできねぇで帰ってきやがった文官風情が、偉そうにしてんじゃねぇって。

「なにもできない文官風情がって、言われたんでしょう?」
「ええ、そうでしたね。そんなこともありました。『確かになにもできませんでした』とお答えした覚えがありますが」
「僕もそう聞いてる。でも、その頃、レンツォって治水政策に必死になってたんだよね。衛生管理に繋がるから、って。それって、そのときなにもできなくっても、この先、しなきゃいけないことを探しに行ったってことなんじゃないの!?」

 当時を語るベラリオは、ひどく楽しそうだった。
 「文官になにができる」と問えば、彼は「武官にはできないことができる」と返したらしい。悪夢の日々に関して、「なにもできませんでした」と返したその声は、暴力的なまでにまっすぐだったと。 
 ――だから俺は、奴が欲しい。
 舌なめずりをして言ったベラリオの目は、ぎらぎらと光っていた。
 あいつは獣だ。まるで豹かなにかだ。音もなく近寄ってきて、気を抜けば喉笛を噛み千切られる。骨まで喰い尽くされる。それはきっと、圧倒的な暴力に似ている。
 「お前にゃもったいねぇよ」と、レンツォの肩を斬りつけた感触を思い出すかのように手のひらを見つめて、ベラリオはそんなことを言ってきた。肩を斬った理由については、最後まで教えてくれなかった。
 次兄があそこまで瞳を輝かせた男が、自分の下にいる。そのことに戦慄した。湧き上がってきたのは優越感でも歓喜でもない。恐怖に近い感情だった。自分よりも遥かに彼の力を実感している次兄に、羨望を覚えた。自分にはもったいないというその言葉は、今でもシルディの心の柔らかい部分に突き刺さっている。
 自分は、レンツォ・ウィズというこの男に、ふさわしい主なのだろうか。
 ロルケイト城の自室に施された頑丈な防備を初めて目にしたとき、シルディは苦笑した。いつだって自分は守られている。町を疫病が襲っても、天災が襲っても、飢えることも凍えることも知らず、暖かく柔らかな寝台で怯えることのない夜を過ごしている。守られることは恥ではないとレンツォは言っていたし、自分だってシエラにも似たようなことを言った覚えがある。それでも、シルディは己を恥じた。
 なにも知らないまま、彼の主ではいられない。
 民を守れない王にはなりたくない。 

「……だからなんですか? 私がそうだったのだから、あなたにもそれを認めろと? 状況がまったく異なっているのに? 馬鹿も休み休みに言いなさい。いいですか。今回、視察の報告はこちらのお嬢さん方が行ってくれます。祓魔もね。それが我がホーリーが正式に依頼した、彼女達の仕事です。あなたが行く必要は微塵もない。私があの地に赴いたのは、誰かが行く必要があったからです。そして、あの場で私が死んでいたとしても、この国に支障はまったくなかった」

 一層鋭くなった眼光は、まっすぐにシルディを射抜いた。

「今あなたが死ぬことは、ホーリーの支えを失うことと同義です。仮に死なずとも、あなたにはこうした無駄口一つ叩いている時間も惜しいのですよ。安っぽい正義と好奇心を振りかざしてものを言うのも大概にしなさい」

 安っぽい正義。
 まったくもってその通りだ。

「……分かった」

 シルディの言葉に、ほっと息を吐いたのは誰だったのか。少なくともレンツォではなかった。

「分かって下さったのなら結構」
「じゃあ命令する」
「……は?」

 その場にいた、シルディを除く全員が目を丸くさせていた。

「ホーリー王国第三王子、シルディ・ラティエ。次代の王を約束された者として、ディルートを治めるロルケイト城城主として、ロルケイト筆頭秘書官レンツォ・ウィズに命ずる。城主不在の折、城主代行として指揮を執り、私欲に惑わされることなくすべての政務を全うせよ。これは厳命である」

 許される必要も、認められる必要もない。これは決定なのだから。
 自分のものとは思えないほど、遠くまで響く声が出た。室内はしんと静まり返り、シエラもエルクディアも、ただ茫然とシルディを見つめている。
 同様に目を丸くさせていたレンツォの空気が、一瞬で凍った。瞳が剣呑に細められると同時、彼の長い足が隣の椅子を勢いよく蹴り飛ばす。けたたましい音を立てて床を転がっていったそれに、シエラとクレメンティアが小さく悲鳴を上げた。
 シルディを睨みつける灰色の双眸は、次兄が言っていたように、確かに獣のように鋭い。

「……勝手にしろ、馬鹿王子が」

 低く唸るように吐き捨てたレンツォは、乱暴に椅子を引いて部屋を出ていった。
 勢いよく開閉された扉が落ち着いた瞬間、シルディの体から全身の力が抜ける。ぐったりと前のめりに円卓に突っ伏すと、すぐさま不安げな声が降ってきた。

「おい、大丈夫なのか? あの男、かなり怒っていたようだが……」
「だ、大丈夫だよ、たぶん。レンツォ、本気では怒ってなかったから」
「あれで本気ではなかったんですか……?」
「本気だったら、たぶん、今頃椅子に縛りつけられてるよ」

 そうは言っても、怖いものは怖い。どっと疲れを感じる。急に重たくなった頭を、ルチアの小さな手がよしよしと撫でてくるのが心地よかった。怒りには敏感な少女だ。それも相手がレンツォとくればさぞかし怖かっただろうに、彼女は真剣な顔で「だいじょうぶ?」と聞いてくる。頷いて頭を撫で返してやれば、花がほころぶように少女は笑った。
 多少強引だったにせよ、これで自由に動くことができる。証人はここにいる全員だ。
 呆れたような、驚いたような顔のエルクディアとクレメンティアを交互に見やり、シルディは深く頭を下げた。

「そういうわけだから、よろしくお願いします」

 役に立たないことは百も承知だ。
 けれど、それが安っぽい正義だろうとなんだろうと、自分の目で見なければいけない。
 この身は、次代のホーリーを担うことを約束されているのだから。


+ + +



「随分と機嫌が悪いのね」

 ふいに声をかけられたかと思えば、けして軽くはない重みが頭上に乗った。自分の頭の上で腕を組み、頭を乗せたのであろう女の髪がふわりと香る。花のような香りなのに、甘ったるく重いものではない。独特の香りには、嫌というほど覚えがある。
 思わず舌を打つ。頭蓋骨を響かせる笑声が煩わしい。
 レンツォは武官ではない。勘はいい方だが、それは気配や戦闘に関するものとはまったくの別物だ。背後の女――リオンは今でこそ文官の地位についているが、元は優れた傭兵だった。こうして気配を消されると、まったく気づかないことが多々ある。そのことが、今は余計に腹立たしい。
 そのままするりと首に手を回し、背後から抱き着くような体勢をとったリオンは、囁くように言った。

「どうしたの?」

 言うまで解放されることはないだろう。
 レンツォは一連の流れをリオンに説明すると、腕を振り払って彼女に向き直った。高い位置で一つにくくられた黒髪が、馬の尻尾のように揺れている。こらえきれなくなったらしいリオンが腹を抱えて笑いだすと、レンツォはますます不機嫌を露わにして押し黙った。



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