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*第23話


 胸が、苦しくなる。
 ひどく、痛む。
 突き抜けるこの胸の痛みは、なんなのだろうか。
 空が踊り、海が駆け、絆を求めて伸ばされた手が、血に濡れる。


 闇の中に、光はありますか。
 そこに、青はありますか。

 あなたの世界は、本当に、そこにあるのでしょうか。


+ + +



 謳はいつも、そこにあった。



 ディルートの天候は回復の兆しなどまったく見せず、淀んだ空は頑なに晴れ間を覗かせなかった。
 海は荒れ、波が腹を空かせて苛立つ猛獣のように牙を剥いている。ディルートの水路はもはや決壊寸前だ。ロルケイト兵団の兵士並びに町民が総出で土嚢を積んでいるが、それが崩されるのも時間の問題だろう。 
 陰鬱とした空気が街中に漂っている。魔物の騒ぎからやっと抜け出したと思えばこれだ。街のあちこちで、ホーリーは呪われたのではないかとの噂が飛び交っていると聞いた。――違う。シルディは強く握った拳を机に叩きつけ、首を振った。
 ホーリーは海に愛された国だ。水と共に生きている。呪われてなどいない。そんなはずがない。――あってはならない。
 どす黒く染まった海が、そんな思いすら否定するように唸りを上げた。

 ずぶ濡れになったシエラ達が戻ってきたのは、そのすぐあとだ。
 気を失ったシエラを侍女が数人束になって湯に入れている間に、エルクディアから大体の話は聞いた。クレメンティアとルチアも、シエラと同様に風呂で温まっている頃だろう。
 風呂から上がって、すっかり顔色のよくなったシエラを交えて、シルディ達は円卓を囲んだ。シエラの蒼い髪が結い上げられ、細い首が露わになっている。

「人魚か……。どうしてなんだろう」

 ディルートの、それもアビシュメリナ付近に大量に現れた魔物は、元は魔物ではないものだった。
 美しく清らかな存在であるはずの人魚が、どうして。
 彼女達のきらきらと光を弾くうろこを思い出し、シルディは思わず頭を抱えた。
 人魚に限らず、幻獣が魔物に転化することは珍しい話ではない。清らかな存在であればあるほど、ほんの少しの穢れでも魔に堕ちる。闇の中へと、光の届かぬ暗がりの中へと、引きずり込まれる。だからといって、これほど急速に、それも大量に転化が生じるとは考えられなかった。「でも、ほんとにいっぱいいたんだよ?」椅子の上で膝を抱えたルチアが唇を尖らせる。疑っているわけではないことを告げると、少女はほっとしたように笑った。

「人魚ってね、悪戯好きで、よく人間を困らせるんだ。泳いでたらいきなり足を引っ張ったりね。……でもね、とっても綺麗な存在なんだよ。誰かを傷つけるための歌なんか、歌わない。それに、ルタンシーンの加護があるはずの海で、そんなこと……」
「ルタンシーンは穢れを受けたと言っていた。だから、力が上手く使えないのだと」
「ああそっか、うん、そうだよね。そうなんだけど」

 分かっている。彼女達もきっと、その穢れに侵された。
 人魚はホーリーを象徴するものだ。海の中を泳ぐ自由の象徴。美しく清らかで、何物にも染まらない存在。
 だからこそ、とても悲しい。
 唇を噛み締めるシルディを見やり、代わりとばかりにレンツォが言った。

「神域の穢れがルタンシーンの加護を弱めたことで人魚が転化したのか。それとも、人魚達が魔物に転化したことが神域を穢したのか。どちらが先か、それとも並行かは分かりませんが、とりあえずは魔物をどうにかするより他にないようですね」
「相手はあの船を囲めるほどの大群です。浄化には時間を要しますが、ディルートの陸地に被害は及ばないでしょう。……水路を渡って来るか、足が生えたりしなければ」
「随分と恐ろしいことを仰ってくださいますね、クレメンティア様」
「考えられる可能性を述べたまでです」

 ぴしゃりと言い放つクレメンティアだったが、ふいに瞳の力を抜いてシルディを気遣わしげに見つめてきた。シルディはそれを受け流し、手元に広げた海図に視線を落とす。今はまだ、優しい瞳に甘えている場合ではない。心をゆだねることは許されていない。
 紙面で見ても、ディルートの海はとても広い。発生源が分かっているのが唯一の救いだが、祓魔を終えたはずのアビシュメリナでどうしてまたこんなことが起きたのだろう。
 今後の方針を話し合うレンツォとクレメンティアの声を聞きながら、シルディはぐっと拳を握り締めた。

「……僕も、海に出る」
「シルディ? 貴方、なにを言って――」
「あなた馬鹿ですか。許可しかねます。寝言は寝ておっしゃい」

 呆然とするクレメンティア達を押しのけるように、レンツォの鋭い声が飛んできた。書類からちらと上げられた視線は、それこそ稲妻のように苛烈なものだ。言葉こそいつもの調子だが、硬い声が真剣さを物語っている。

「本気だよ、レンツォ。僕も、シエラちゃん達と一緒に海に出る」
「――それで、どうするおつもりですか? あなたみたいなただの人間が、行ってなんの役に立ちますか。操船なら船長に任せなさい。それとも甲板の掃除でも? 立派なお仕事ですが、あなたのすべき仕事ではありませんね」
「なにもできない。ただ見てるだけだよ。でもね、この目で見なきゃ。だってここは、僕らの国なんだよ」
「許可できません。あなたの国だと言うのなら、その国の現状をはっきりと見つめなさい。今、この国はどういう状態ですか? 二人の王子が――、領主が、同時に消えた。中央の役人だってごっそり減りました。ええ、減らさざるを得ませんでした。ホーリー主要都市は領主不在でがら空きです。その上、このディルートに訪れた天変地異」

 クレメンティアが心配そうに手を揉むのが見えた。
 レンツォの声がさらに低く、獣が唸るようなそれに変わる。

「万が一、今ここであなたを失ったとしたら、このホーリーがどうなるとお考えですか」

 マルセル・ラティエの子は全部で五人。そのうち、息子は三人だけだ。
 王位継承権を持つ者は、今やシルディだけになった。
 そのシルディがいなくなれば、主要三都市に穴が開く。国は混乱に陥り、否応なく動乱のさなかに突き落とされるだろう。ベスティアはこの地を欲している。
 いざとなれば、マルセル王は王位を第二王女に譲り、女王制を敷くこともためらわないはずだ。あるいは、優秀な者を養子とし、その者を次期王とするかもしれない。
 しかし今は、人が足りない。先日の事件を機に、粛清せざるを得ない人材が多すぎた。信頼のおける臣下が少なければ少ないほど、国はじわじわと荒廃していく。
 それになにより、三人の息子を同時期に失う父親の心痛は、シルディの想像を絶するだろうことくらいは理解できる。
 シルディとて、隠しきれない胸の痛みを感じている。兄を失った。見知った臣下を裁いた。目の前で自らを貫いた長兄の最後の声が、耳の奥にこびりついて消えてくれない。――消しては、いけない。

「あなたを失ったことで生じるホーリーの損失を、その足りない頭で考えてからものを言いなさい」

 レンツォの言っていることは、きっと正しい。
 今のホーリーの状態を鑑みるに、シルディはロルケイト城に籠もって政務をこなすべきなのだろう。そしてできうる解決策を考え、行動に移すべく手続きを踏む。それがシルディのなすべき仕事なのだろう。
 けれど。

「……じゃあレンツォは、なにもしなかったって言うの?」 
「はい?」

 沈黙を守ってくれているシエラ達に微苦笑を一つ投げかけてから、シルディはレンツォにそう訊ねた。

「ベラリオ兄様から聞いたことがあるんだ」

 ベラリオの名前にエルクディアが苦い顔をするのが分かったが、構うことなくシルディは続けた。

「十六年前の悪夢。しばらく経って、疫病の被害が治まってきた頃。その頃、視察に行ったんだってね。土地も、人も、全部死んだ、辺境の村に。……なんで? 医者でもない、研究者でもない、なにもできないただの若い文官が、どうしてそんな現場に行ったの?」
「あなたの言ったように、視察のためですよ。なにもできないただの若い文官こそが、うってつけの人材でしょう。高官に行かせて、感染でもして帰ってきたらどうするんですか。失っても支障のない者だからこそ、出向いた。調査する必要がありましたからね」
「でもっ、でも、ベラリオ兄様は言ってたんだよ! レンツォは、なに一つ、諦めてなかったって。諦めるために、行ったんじゃなかった、って」

 シルディは、十六年前の悪夢の日々を知らない。
 死んだ町をこの目で見たことはない。
 その頃はまだ小さな小さな子供で、自分が守られて過ごしていることすら、知らなかった。



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