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「どーお? ルチアだけでも、エルクより役に立つんだからぁ!」

 魔物さえ苦しめる猛毒。
 それが、こんな小さな子どもに備わっている。
 感心するよりも、怖気が勝った。その隙を突いたように、船が右に傾く。

「やっ、きゃああああ!」
「ルチア!」

 右舷にいたルチアの体がぐらりと傾ぎ、防ぐまもなく船端から姿を消した。ライナが悲鳴を上げる。それを聞いたときには、シエラはすでにエルクディアの腕を振り払っていた。

「待てっ、シエラ!!」

 許せ、体が勝手に動いた。
 別の意識がそう言い訳をする。気がつけば船端を乗り越え、シエラの体は牙を剥く海面へと向かっていた。待ち構えている人魚の腕が、先に落ちたルチアの体を海中に引きずり込むのが見えた。
 冷たい水の感触が全身を包むよりも先に、何十本もの腕が体に絡みついてくる。外套を剥ぎ取られ、腕に、首に、足に、腰に、血の涙を流す人魚の腕が巻きついた。ロザリオを押し当て、怯んだ隙に拘束から逃れてルチアを追う。
 木の葉のように流されてしまいそうな荒波だが、無数の人魚がそれを阻むのが不幸中の幸いだった。苦しげに気泡を吐くルチアの手に、シエラは懸命に手を伸ばした。四方から伸ばされる人魚のそれから逃げつつ、なんとか指先を捕らえる。

「(――渡さない)」

 渡してはいけない。
 どうしても。
 シエラの髪を掴んでいた人魚達が、数体離れて浮上していく。おそらくエルクディアが飛び込んできたのだろう。自分が引き上げられるよりも先に、ルチアの手を握らなければ。でないと、あの男はシエラだけを引き上げて船に戻ってしまう。
 それでは駄目だ。あの子は助けないといけない。
 なぜか、そうしなければならないという強い思いに駆られ、シエラは無我夢中でルチアの腕を掴んだ。引きずり込まれる間に首を絞められたのか、ルチアは細い首に手形をつけてぐったりとしている。浮力を利用して引き寄せると、シエラを襲う人魚の攻撃がより苛烈さを増した。
 髪を引き、腕を掴み、足に絡む。首筋に噛みつかれ、悲鳴の代わりに大きな気泡が口から漏れた。濁った視界の隅で血の糸が揺れる。必死にもがいて海面を目指すも、もはやどちらが上なのかが分からない。苦しい。息が持たない。エルクディアの剣が人魚の腹を裂くのが見えた。息の仕方が分からない。鼻から吸い込んだ海水が粘膜を焼き、さらに苦痛を強いる。
 もう吐き出す空気すら残っていない。海の中では神言を紡ぐこともできない。テュールの気泡があれば別だったのだろうか。
 片方の眼球を失くした人魚が、シエラの首に手をかけた。不恰好に伸びた牙が下顎に突き刺さっている。人魚が触れた首筋が、どくどくと脈打っているのを感じる。噛みつかれ、血の流れたそこは、生を懸命に訴えている。

「(……聖血)」

 魔物にとって絶品ともいえる餌であり、聖職者にとって最強の武器にもなる血だ。
 魔に堕ちた人魚が歓喜の声を上げる。神の後継者の血は、彼女らにとってさぞ甘美なことだろう。
 腕と足にも激痛が走る。鋭い爪で裂かれたか、あるいは噛みつかれたか。
 ルチアを奪おうとする手に、シエラは朦朧とする意識の中、ロザリオを突き立てた。

「(わたさない)」

 懸命に兄を望むこの少女を、死なせるわけにはいかない。
 急激に海水が冷えていくのが分かった。なにかが凍りつく音が聞こえる。濁った海中が、青白い光で包まれた。シエラの体に触れていた人魚達が、声にならない悲鳴を上げて距離を置く。
 パキリ。澄んだ音が心地いい。
 シエラの首筋や手足から湯気のように立ち昇る血が、意思を持ったかのように人魚達を絡め取る。

「<――眠れ>」

 氷のような神気が、胸から腕へ駆けていくのが分かった。薙いだ指の先から青白い光が放たれ、もがく人魚を捕らえては氷漬けにしていく。胸元で揺れるロザリオのブルーダイヤが淡く発光し、リィンと涼やかな音を立てた。
 シエラの周りを取り巻く人魚が徐々に数を減らす。祓魔したわけではない。ただ、そのままの状態で凍りつき、深い海の底に沈んでいく。


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