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 淀んだ海から、無数の腕が生える。髪にヘドロを乗せ、爛れた諸手を船底に貼りつけ、人魚達は歪んだ口からいびつな音を漏らした。あっという間に船は囲まれ、ざっと見ただけでも五十は超えるであろう人魚の群れが、船を沈めようと躍起になっている。
 エルクディアに支えられながら、シエラは必死に神言を紡いだ。

「<闇は光に、魔は聖に。――光矢、その業を貫け>」

 番えた矢が放たれ、三体の人魚を一気に貫いた。途端に耳を覆いたくなるような断末魔が上がる。血泡を吐き、灰を含んだそれが波に飲まれるのに、そう時間はかからなかった。
 ライナが張り巡らせた結界によって、転化した人魚達は船に触れることができない。直接沈めることは無理だと判断したのか、彼女達は唸りを上げながら船の周りを囲み、落ち窪んだ瞳でシエラを見つめながら歌い始めた。
 頭が割れんばかりの頭痛と、胃の腑を直接手で掻き回されるような不快感が押し寄せてくる。
 耳のいいテュールにはかなりこたえる攻撃らしい。小さな竜は弱々しく羽ばたいたかと思うと、甲板に落ちて苦しげに体を丸めた。

「ぐっ……! 歌は、結界では防げないのか!?」
「ある程度は軽減できますが、人魚は元が幻獣ですから、これが限界なんです! 耐えて下さい!」

 言いつつライナが聖水を海に投げ入れ、周囲の人魚を散らす。それでもひっきりなしに人魚が押し寄せ、船体に触れては爛れた手に悲鳴を上げて沈んでいくという光景が何度も繰り返された。
 きりがない。ぐっと唇を噛み締め、シエラは強くロザリオを握り締めた。これだけの数の魔物を一掃するだけの神言はなにか。テュールの力を借りることはできない。どうすればいい。力はあるのだ。あとは、どう使えばいいかを考えろ。
 己に言い聞かせ、どうすればいいかを探る。そんなシエラの外套を、ルチアが控えめに引いてきた。

「ねぇ、シエラ。あのね、この子たち、還した方がいーい?」
「還す? どういう意味だ」
「ルチア、多分できるよ。全部は無理かもだけど、でも、できるよ?」

 目に見えてエルクディアが怪訝そうな顔をした。今は構っている暇がないとでも言いたげだ。
 揺れによろめくルチアの手を取り、シエラは問う。

「お前の毒は、魔物にも効くのか?」
「うん。だって、シエラがやっつけたあの鳥には効いたもん。だから他のにも効くと思う!」
「それで、どうするつもりだ?」
「シエラがすこぉし血を分けてくれたら、この子たちを還せると思うの! 少しだけ、少しだけでいいんだよ? ほんのちょっとだけ! そしたらルチア、ぜぇったいうまくやってみせるからぁ!」
「シエラ、聞くな。確証もないのに傷をつけるわけにはいかない。お前のできる祓魔をすればいい」
「でもエルク、ルチアの力は……」
「いいから! 聖職者がやらなきゃ、魔物は救われないんだろう!?」

 シエラにというよりも、むしろ、ルチアに怒鳴りつけるようにエルクディアは言った。一瞬唖然としたルチアが、すぐさま頬を膨らませる。人魚の歌がより一層不気味さを増す。
 ――クルシイ、ニクイ、タスケテ。
 そんな叫びさえ聞こえてきて、一刻も早い浄化が求められる状況だった。

「ルチア役に立つもん!! バカにしないでよね!」

 足元の不安定な甲板の上を、ルチアは跳ねるようにして駆けた。水を含んだ外套を脱ぎ捨て、裸同然の恰好が露わになる。彼女は首から提げていた小瓶から液体を煽ると、強くエルクディアを睨みつけ、船端に小瓶を叩きつけてそれを割った。鋭いガラスの破片で、彼女はためらいもなく指先を切りつける。
 赤い珠が滲んだ。海へと突き出した手の先から、血が落ちる。ほんの一滴の赤が荒れ狂う海面に呑まれたそのとき、付近にいた人魚が悲鳴を上げて血泡を吐いた。爛れた手で、青紫に変色した胸を掻き毟る。美しさは微塵も感じられない醜悪なその姿は、幻獣と呼べるものではない。


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