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 天気は常に雨だった。
 長い外套(ローブ)を纏っていても、強い海風が吹けばあっという間に頭からずぶ濡れになるほどだ。蒼い髪をしとどに濡らし、シエラは大きく揺れる海面をじっと見下ろした。
 これ以上の悪天候が続けば、漁業はままならなくなるし、製塩業も厳しくなる。なによりも、運河や水路が氾濫し、街が水没してしまうとシルディは嘆いていた。一刻も早い天候の回復を望むが、そのためにはルタンシーンの言う穢れを祓わなければならない。
 ディルートに戻って来てから、シエラは度々、海の方から「嫌な感じ」を受けていた。魔気というほどでもないが、ふとしたときに目がいく。そう告げると、ライナとレンツォは揃って同じ答えを出した。ペイモラの港から船を出し、その海域に異変がないかを見てこいと。――そこは、ちょうどアビシュメリナの近くだった。
 灰色に濁った海の中、星見の塔が遠くに見えた。荒れ狂う海上はひどい揺れで、ライナが唇を真っ青にさせている。危険だから中に入っていろと言ったのに、ルチアは舳先に張り付くようにしてあちこちを見回していた。
 よろめく体はエルクディアが支えてくれる。外套の上から触れる手がとても熱く感じた。
 神がシエラを名指しで指定したのだから、穢れとやらはシエラには感じ取れるものなのだろう。魔気か、あるいは瘴気か。どちらにせよ、違和感は必ず生じるはずだ。ごうごうと荒々しい風が吹きつける中、目を閉じて全神経を集中させる。そうすれば、自然と音が消えていくのが分かった。なにも聞こえなくなる。雨音も、風の音も、自分の呼吸さえ。
 自らが作り出した暗闇の中で、シエラはいつも一人だ。光はない。すべてが無になったその場所で、ふいになにかが弾けた。その瞬間に、意識の外で瞼が押し上げられる。操られたかのように目が海中を追い、僅かに感じ取った感覚を逃すまいと全身が粟立って異変を訴えた。
 同じものを感じ取ったのか、肩の上でテュールが鳴く。

「シエラ、どうした?」
「魔物がいる。まだ遠いが、でも、確かにいる。――ルチア、船室に隠れていろ」

 この感覚は、アビシュメリナで大量の魔魚が襲ってきたときのものと酷似していた。一体一体はさほど強くはないが、大軍で迫ってくるあの感覚だ。
 ルチアは魔物に怯えるどころか爛々と目を輝かせ、ぐっと身を乗り出して海の中を覗き込む。どれだけ注意しても、彼女が船室に籠もることはなかった。船が大きく揺れる。シルディが持つ大船だというのに、上下左右に揺さぶられ、高波が甲板に押し寄せた。
 一度嘔吐したのか、ライナが口元を拭いながら駆け寄ってきた。ふらついているが、眼光は強い。

「やはり、ここに出ましたか」

 アビシュメリナは、かつてルタンシーンが沈めた町だ。
 この海域に頻出していた魔物は確かにシエラ達が駆逐したが、またしても穢れが撒かれたとなれば、可能性として考えられるのはここだった。

「下の方から昇ってくる。さほど強くはないだろうが、数が多い。ライナ、船全体に結界を張れるか?」
「ええ、任せて下さい。エルク、シエラを頼みますよ」
「ああ。そっちも頼んだぞ、ライナ」

 帆柱に縋るようにしてライナが体を支え、神言を唱え始めた。パンッと音がして、船全体に神聖結界が張り巡らされたのが分かる。清浄な空気で満たされ、呼応するようにシエラの髪が風に躍った。油断すれば海に放り出されてしまいそうな船上で、ルチアのように身を乗り出して海の底を見下ろす。淀んだ海は透明度がなく、以前と違って海中の様子がまったく分からなくなってしまっていた。
 突風が吹き抜け、ひときわ大きく船が傾く。小さく悲鳴を上げたルチアを、見かねた船員が抱きとめているのが見えた。背後のエルクディアに変化はない。シエラは呼吸を整え、魔物を追うためだけに研ぎ澄まされた目を凝らして海中を覗いた。

「――え?」

 大量の魚群を、金の双眸が写し取る。
 尾を揺らし、気泡を上げ、迫ってくるのは確かに魚の群れだ。
 けれど、「それ」は魔魚とは明らかに形状が異なっていた。

「人魚の群れ……」
「人魚の? まさか、こんなに大量に転化したって言うんですか!?」

 海中から歌が聞こえてくる。耳をつんざくような不協和音に、シエラは反射的に両手で耳を塞いでいた。なんだ、これは。歪んだ音、ひび割れた声。人魚の歌は清らかで美しく、人々の心を癒すもののはずだ。だが、これはあまりにも禍々しい。
 転化した人魚は、ディルートの街でも見かけたことがあった。けれど、これほどまでの大群に遭遇したのは初めてだ。


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