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「ディルートの水脈、地脈は穢された。穢れのせいで、俺も力が抑えきれぬ。なあ、神官。これをどう見る」
「はっ。まことに、遺憾の意を示しますとともに、早急な対処をと考えてございますほどに」
「なれば神官。贄を寄越せ」

 ゴルドーに緊張が走った。ニエ。言葉の意味を考え、シエラも遅れて目を瞠る。

「し、しかしながら、ルタンシーン様、贄はもう、何百年と出しておらず、その」
「出せ」
「どうか、どうかご容赦を……!」
「ならん。出せ。神の言葉に抗うか」

 ゴルドーが冷たい床に額を擦りつけて懇願するも、ルタンシーンは語調を緩めることはなかった。
 神に捧げる贄がどんなものか、シエラは知らない。予感めいたものを感じながら、それでも、確かめずにはいられなかった。

「ニエとは、なんだ」
「口の利き方を知らん小娘だな。姫神でなくば、くびり殺してやるものを」

 すっと目を細め、ルタンシーンは言った。

「人の子を、生きたまま、海底へと送る。ただそれだけのこと」
「……殺すのか」
「俺は殺さない。だが死ぬ。しかし、人身を捧げるは最も尊い奉仕だろう! なあ、神官!」

 問いかけに対し、ゴルドーは額をさらに床に押し付けることで応えを回避した。震える老人の姿が痛ましい。

「贄を寄越せば力も戻ろう。嵐とて治めてくれる。そこな小娘の無礼とて許そう。どうだ、これ以上の慈悲はあるまいて」
「それはおかしい。神が人を殺すだなんて、そんな」
「口を慎め小娘が! 神は殺す。人も、獣も、この世でさえ。なんの代償もなしに、貴様らを守ってやるとでも思うておったか? ハッ、笑止!」
「だったら神はなんのためにいるんだ!」

 恐怖を覆い隠すためには、声を荒げるより他になかった。叫ぶように吐き出した言葉を受け、ルタンシーンは冷ややかにシエラを見下ろした。

「なれば、見せてみろ」

 ぽつりと落とされた言葉はあまりにも小さく、静かだった。あともう少しこの部屋が広ければ、それを拾うことはできなかっただろう。

「貴様が思う神の姿を。姫神、貴様なればできるであろう。その尊い神のありようをルタンシーンに示せ! 穢れを祓い、悪しき輩に裁きを与えよ! 神器を傷つけた業深き蛇神を引きずりだせ! できぬと言うなら贄を寄越せ! さもなくばこの街も、海の底に沈めてくれる!」
「なっ……!」
「答えよ姫神! やるのか、やらぬのか! 今すぐに沈めてやってもよいのだぞ!」
「ッ、やる! やるから! だから!」
「――神との誓約、たがえるな」

 ルタンシーンが促すままに、シエラは神台の傍らに立った。小さな両手が頬を挟み、縦に割れた瞳がぐっと近づいてくる。肌が触れた瞬間、強すぎる神気が流れ込んでくる感覚に鳥肌が立った。
 水が跳ねる。雫が落ち、ルタンシーンはなにごとかを唱えながらシエラに口づけた。


+ + +



 ルタンシーンがゴルドーを追い出してから、しばらくが経った。可哀想に、疲弊しきった老神官は冷や汗を浮かべながら、まろぶようにして扉の向こうへと消えていった。
 シエラの心臓も、ようやく落ち着きを取り戻し始めている。ルタンシーンの――体は蓼の巫女のものだったが――唇がシエラの唇に触れた瞬間、氷のような冷たさが喉の奥を駆けていったのが分かった。それは胃ではなく心臓に入り込み、ぎゅっと一掴みしてから消えていった。少なくとも、シエラにははっきりと掴まれたような感覚があった。膝をついて胸を押さえるシエラに、ルタンシーンは一瞥をくれるのみでなにも言わなかった。
 そうして落ち着いた頃に、傲岸不遜な神は神台から降りてきた。濡れた巫女服を煩わしそうに見下ろしたが、絞ることも脱ごうとすることもせず、そのまま神台にもたれかかった。

「なぜゴルドーを追い出したんだ?」
「不要だからだ」
「なら、私は必要なのか」
「ああ。姫神には言わねばならんことが山とある」

 どこか楽しそうにルタンシーンはそう言って、蓼の巫女が袖に入れていた鈴の束を無意味に鳴らして遊んでいた。


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